フェースブックの「友達申請」についての私見です

私にとって「友達」とは、「一緒に仕事または遊びという社会的交際をして、お互いの氏名、顔つき、考え方、遊び方を知っている」ひとです。

フェイスブックでの「友達」は「ある記事を配信できる限定された対象のグループ」です。

フェイスブックの文化で定義された「友達」は、わたしの今までの人生で体験した友達とは違う定義のグループです。

「友達」という言葉にこのような定義の追加を認めるには、私にとつてのそれなりの価値が必要です。

私が自分のつかう言葉の定義の追加や変更を行うときは、その変更により、1.既存の学問が理解しやすくなる、2.社会的事象への理解や参画が容易になることが必要です。

キネステティクの中の用語の定義の整理と変更は、上記1の例です。レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーという言葉についても、私の中で定義の変更が行われました。上記2の例です。私の中では、ときどきこのような言葉の定義の変更が行われます。最近は熱中症、カンピロバクター、漬物などの自分の中の定義を拡張しました。

しかし、フェイスブックの中の「友達」は私としては許容範囲外なのです。わたしが友達という言葉を思うと、過去の体験から連想され、この後に行動しようとすることは、現実的です。

友達が困っていると言ってきたときは、話を聞き整理して具体的に自分の可能な行動を考えます。地震で困っていると聞けば、お金を送る。食べ物や衣類がないと聞けば物資を送る手段を探る。

 

だから、フェイスブックの「友達」の定義を受け入れられません。フェイスブックが別の言葉を使うなら構いません。「ダッチチ」とか「ツレレ」とか、従来のわたしの文化にない言葉を使えばね。

でも、「友達」は今まで文化に深く根ざしていて、この定義を変更追加すると、私の言語体系と行動指針を変えなければならなくなります。

もちろん、言語的には「フェイスブックの友達」という言い方で、意味を限定することも可能です。でも、そんな面倒なことと、使わないこと=フェイスブックの友達認定をしないことを天秤にかけると、「使わない」ことのほうが楽なのです(私にはね)。

あなたは「そんなにこだわることはないだろう」と言われるかもしれません。でも、わたしはこだわるのです。そこまでこだわると、自分の言葉が細部まで「意味」を持つからです。

一般意味論や認識論、臨床心理学でいろんなことを学びました。だから、自分の使う言葉には真摯でありたい。話し方、書き方、言い方はぞんざいでも、丁寧に言葉を選びたい。

フェイスブックは私の文化では友達でないグループを友達と呼びながら、たんなる宣伝対象の人々を増やそうとしてるように見えます。

というわけで、「友達」という言葉に対するフェイスブックの態度が受け入れられないので、わたしは友達認定をやめました。

 

上記の考え方を理解できる方は、「なるほどな」と思いフェイスブックで「友達」になろうとしないでしょう。上記の考え方を理解できない方は、「こんな面倒くさいやつは俺のダチにはいらん」と気づき、友達にさえなろうとしないでしょう。

どこかでお会いしてお話して一緒に遊んだら友だちになれるでしょう。