5/2,午後3時56分。根府川ゲストハウスに到着。
これからセンサリー・アウェアネスのワーク・ショップに初めて参加します。
例によって、私が書くのはハウツーではなく、私が「感じたこと」と「考えたこと」です。
他のメンバーはすでに3階の会議室に集合していたので、荷物を持ったまま、会議室でワークに参加しました。
指導するジュディス・ウィーバーさんはシャーロット・セルバーの弟子でアジアを中心にセンサリー・アウェアネスを指導しています。
ジュディスさんは日本にも住んでいたことがあり、日本語を話せるのですが、正確を期するために、通訳が付きます。
通訳は今回の主催者の山地さん。
教育心理学からアメリカに留学し、そのときジュディスさんのセンサリー・アウェアネスにであい、その大切さに気づいたといいます。今はIT研究員です。
ありがたい人です。
この人がいなければ、わたしがセンサリー・アウェアネスのワークショップに参加することはできなかったでしょう。
1日目夕
最初にジュディスさんから説明がありました。
センサリーアウェアネスのセミナーは、いろいろな名前が付けられたときがありました。
ジュディスさんは以前つけられた「言葉によらないコミュニケーション、Non verbal communication」が好きだと言います。
参加者の自己紹介の後、呼吸のワークを行ないました。
座ったままで、呼吸し、自分の呼吸を感じてみます。
どこが動いていますか?
立ち上がるとき、どうなりますか?
ジュディスさんは、「こうなっています」とか「こう感じるでしょう」と言いません。
各自が感じるように感じることを促します。
どうせ、みんな他人の感覚はわからないのです。
ときどき、各自の感じたことをシェアします。
つまり、話すことで分け与えます。
でも、レポートを無理強いされません。
「話したいと思うときに話してください。無理に話すことはありません。」
「センサリー・アウェアネスのワークショップの場は、子どもの遊び場」だと言います。
いろいろな「探検」が許されます。
その「探検」には参加しないという自由も与えられます。
ジュディスさんは指導もしなければ、邪魔もしません。
ただ、「場」をつくり、ときどき「自分が、今、ここで何を感じているか」を問います。
「探検」の中では自分の感覚で体験しなければなりません。
その「感覚」をシェアするときに、自分が何をして、何を感じたかをはっきり理解できるかもしれません。
このようにして、わたしは「子どもの遊び場」で子どもの時には上手だった「自らの感覚を使うこと」を思い出していきました。
夕方6時に食事。7時からまたワークです。
側臥位になります。ジュディスが問います。
「呼吸をどんなですか?」
少し変化させて、またジュディスが問います。
「今、どこで呼吸していますか?」
夜は宿題として、寝る前と、翌朝起き上がる前に自分の呼吸を感じるように指示されました。
夜、9時半から参加者の飲み会。他の参加者と話をしました。
言葉の嘘に飽きたというカウンセラー、ハコミセラピスト希望の陶芸家、オステオパス志望の元アナウンサー、看護大学院に行く助産師さん、セミナー主催会社経営者、詳しいことは良く分からない人が合計11名。
今まで、こんなグループの中で生活したことはありません。
5/3、上肢の動きと呼吸について感じるワークで始まりました。。
私の体の左側は固く、右側は緊張しています。
ジュディスは「手を上に伸ばしてください」と言います。
やることは、ただそれだけです。
どのようにやるかは自分に任されます。
だんだん、肩甲骨の動きを感じて呼吸するようになりました。
おっ、なかなか、良い動きになってきたな。
ふだん、「上肢の付け根は胸鎖関節にある」と言っているのに、自分の呼吸の時には、すっかり忘れていたことに気づきました。
愚かさは減りました。
それでも、時々呼吸を忘れます。
昼食のときに上肢の動きを感じるように宿題を出されました。
他人のことは知りませんが、私は肩から先、特に手首から先だけで食べようとしていることに気づきました。
午前中のワークで、胸鎖関節を始点として肩甲骨を上肢の一部として使えることに気づいていたので、胸骨から上肢が生えていると思い、食べようとすると、「上肢全体」が使えます。
「上肢全体」を使おうとすると、胸鎖関節から動きが始まります。
実際の筋電図を取る必要はありません。
そのように感じるのです。
これが「感覚」を使うことです。
上肢全体の動きが胸鎖関節から始まると当然、指先まで動かすのに「時間」がかかります。
でも、時間をかけると、「自分が今、ここで何をしているか」がわかります。
上肢がうまく使えるようになったが、噛むためにとてもおおきな力を使っていること気づきました。
「力」を適正にすると、「時間」が必要になる噛むために「空間」も必要になるので口いっぱいにほおばることをやめます。
「力」を減らし、「時間」と「空間」を使うと、味がわかるようになりました。
自分はキネステティクスの講演を頼まれると「自分の体に力を入れると相手の動きがわかりません」と、説明しているのに、自分が何をしているのかに気づいていなかったのです。
ジュディスさんを見ると確かに力をいれずに時間をかけて食べています。
ここで気がつきました。「わたしは時間の使い方が下手だった!!!」
子どもの時から、「早くしなさい」、「早起きは三文の得」、「先んずれば人を制す」と教えられ、そう信じ込んでいました。
たしかに、早くすると作業効率は上がります。
しかし、そのプロセスを感じられません。
感じるための時間を体に与えていないからです。
医者になってからも、仕事を早くこなすために、食事は掻き込むように食べていました。
自分が何をしているのか、気づいていなかったのです。
掻き込んでいるときに、「自分が食べている」という体験を味わっていなかったのです。
これまで生きてきた、それらの時間は物理的に経過しましたが、私の人生の中には書き込まれなかったのです。
上肢全体を使って食べることは、「今、ここ」を感じることになります。
あらゆる動きについて同じことが言えます。
「時間」を使えば、わたしは「その一瞬、一瞬を生きること」ができます。
シャーロット・セルバーの遺稿集のタイトル、”Every Moent Is A Moment”は、そういう意味でしょう。
一般意味論でコージブスキーが「人間は空間の3次元に時間を足した4次元で生きている」と書いているのは、こんなことかもしれないと思いました。
このような「気づき」が、このワーク・ショップの各所にあります。
もちろん、これは私の中で創造される「意味」ですから、他の人が同じことを感じることはありません。
でも、シェアすると、他の参加者の中で、その人自身のユニークな「意味」が、またできてくるのです。
午後は4時まで、フリータイムです。
山地さんがメールで教えてくれてあった根府川ヒルトンホテルのプールに行きました。
根府川駅から無料の送迎バスがあるらしいのですが、駅までタクシーに乗ることになります。
それならホテルに直行したほうが楽と思い、タクシーを使いました。
往復のタクシー代とプールの使用料で5000円。
実質の滞在は1時間くらいだから、とても高価な遊びでした。
ふところは痛くなりましたが、上肢がとてもよく動いて、気持ちよく泳げたから満足しました。
泳ぎがうまくなったと思います。なるほど・・・。
4時から、ワーク。再び、上肢の動きと呼吸をどのように感じるかと問われます。
フェルデンクライス・ジャパンのかさみさんのATMで感じた上肢と脊柱と骨盤と下肢の関係を思い出しました。
そのとき、かさみさんは「自分を針金人形だと想像して、上肢や下肢と脊柱のつながりを感じてみてください」と問うていました。
「そうだ!人間は針金人形だった!」
このように気がつくと、とても動きやすくなりました。
上肢を上に伸ばしたときに、上肢、肩甲骨(鎖骨)、脊柱、骨盤・下肢が一体となって動いています。
ところが、意識するとたちまちギクシャクします。
考えている。
おろかだねぇ。
でも、その愚かさを楽しめるのが、「子どもの遊び場」の良いところです。誰に気兼ねすることもないのです。
夕食後はみかん6種類の全体を感じるワークでした。
色、皮の手触り、実の味、皮の味、皮の匂い、実の匂いを表現しあいながら、「みかん全体」を味わいます。
私は、味覚と嗅覚の表現力がないことに気づきました。
「早食い」でしたから、味わうことがありませんでした。
子どものころは野菜嫌いだったので、多くの「味」を体験していません。
「食べるものに文句を言わない」教育を受け、子どもにもそういっているので「味」を言葉にするのに抵抗があります。
言葉にできないと、「味」の体験を思い出しません。
嗅覚はさらに「個人的文化」の影響を受けています。
私の個人的文化として匂いについて言及することは「悪いこと」なのです。
困ったものです。
というわけで、この2つの感覚については、開発中として、そのままで認めておくことにしました。
そのうち磨かれるかもしれません。
このワークは苦しかった。へへへ。
最後に翌日の予告がありました。
「沈黙」のワークに入ります。
朝起きてからしゃべらないこと。
そして、散歩に出て、果樹園でワークに入ります。
そのワークでは一人が目を閉じ、もう一人が保護者になります。
目を閉じた人は自由に行動します。
言葉も視覚も使わないので、保護者は危ないときには、その危険を避けるようにしてあげます。
たとえば、がけから落ちそうなときは目を閉じた人の前に立って、壁になるとか、枝にぶち当たりそうなときは、枝と目を閉じた人の間に手をはさむというようにしてください。
しかし、邪魔はしないこと。
やりたいことをしても危険にならないようにするのが保護者の役目です。
以上のように、ジュディスから説明がありました。
この保護者のやり方は、「ドンコロ野外学校」のインストラクターのやり方とそっくりです。
5/4 朝から、沈黙のワーク。
食事中もしゃべりません。
噛むことを感じてみます。
昨日よりはまともに噛めます。
少し「正常(自分のまともな機能状態)」に近づいた。
一服してから、散歩へ。
途中で草、花、石、壁、その他いろいろなものに、見て触れて嗅いで、ちぎって、もみくしゃにしてみます。
「子どもの遊び場」だからです。
果樹園についてワークに入りました。
目を閉じて歩いてみます。一歩、進もうとすると、片足立ちになります。
片足立ちが安定しないと危険です。
だから、まず「今、ここ」の立ち方が重要です。
「今、ここ」で立っていないと進むことはできません。
次の一歩を出してゆっくり重さをかけてみます。
しっかり踏めるところと確信したら、さらに重さをかけます。
重さを前に出した足にすべてかけたら、片足立ちになります。
こうして、後ろに残っている足が「今、ここ」で動かせるようになります。
このように歩くと一歩は足の長さ程度になります。
「経行(きんひん)だ!」。
ブルックの書いた「センサリーアウェアネス」の翻訳本に説明として出ていた禅僧の歩き方と同じになります。
果樹園のなかを目を閉じて歩くと、木の枝が顔にあたりました。
しかし、歩幅が小さいので、痛くありません。
目を閉じて歩くときに、両手を前に出して振り回して歩く人をよく見ます。
しかし、両手を振り回すのは自分の進まないところまで手を伸ばすことになります。
自分が進まないところまで探る必要はありません。
さらに両手を振り回すとバランスをとりずらくなります。
「経行」をすれば自分の進む先の障害物しか問題になりません。
そして、障害物を感じたらすぐに止まれます。
いつでも片足立ちしているから、止まれるのです。
「歩こう」として「今、ここで立っている」ことを忘れて、前に重さをかけると止まれません。
木の枝で傷つくかもしれません。
じつは「顔にあたった枝」は障害物ではありません!
この枝を枝元に向かい手で探っていきます。
すると、幹にたどりつきます。
幹から木の根元を探ります。
木の根から地面を探ります。
こうするときと地面の状態が分かります。
すると、安心して次の方向に進めます。
つまり、木の枝にあたることは障害ではなく、「ガイド」を得ることです。
ここで疑問がひとつ氷解しました。
それはグルジェフが著書にの中で、「私の最大の敵でさえ私の協力者にならざるを得ない」と書いていたことです。
最大の敵=障害物はじつは安全な方向をはっきりと示してくれる協力者なのです。
安全な道は逆戻りかもしれません。
しかし、それは断崖に行くのを阻む保護者が示す道かもしれません。
センサリーアウェアネスとグルジェフ・ワーク。まったく違うものに見える二つですが、人間を題材としたワークは、結局、同じゴールに向かうようです。
ワークを終えてゲストハウスに戻りました。
各自が自分の探検の中の「発見」をシェアします。
午後4時のワークは、「視覚と呼吸」。といっても、このタイトルは私が便宜上付けたもので、ジュディスさんは何も注釈しません。
センサリー・アウェアネスではすべてが自由だから、あるワークから何を感じるかは、参加者の側に任されます。
ですから、ジュディスさんは、これから何をするかを説明しません。
例外は「沈黙」の行に入ったときだけです。
あのときは、話しておかないと危険なことだけ説明していました。
ですから、この「視覚と呼吸」というのは、わたしが感じたものからつけた名前です。
このワークでは参加者が輪を作って座ります。
参加者に目を閉じてもらい、その間にジュディスさんがあらかじめ用意しておいたものを、輪の真ん中に置きます。
「準備ができたと思ったら、目を楽に開けてください」と言われて、目を開けます。
すると、目の前に、「何か」が置かれているのが目に入ります。
そのときに、自分が何を感じているかを問われます。
この問いに対して、誰かに答える必要はありません。
自分にさえ答える必要はありません。
「答える」という言語化をできないものがあることは明白です。
また、言語化に時間がかかることもあります。
「あのとき、こう言ったら良かった」ということは、あることです。
また、言語化することで、「今、ここ」で感じているものを見失うことはとても多いです。
言葉が少ないために、青も緑も「あお」と表現するようなことは、多いのです。
ですから、「自分が準備できていると思ったら、話してください。
無理に話すことはありません」と言われます。
そして、話し始めた人が混乱していると感じたら、ジュディスは「今は休んで後から話してくれても良いですよ」と言います。
フェルデンクライスはナチスの台頭でイギリスに疎開したときに、眼科医のベイツに会っています。
ベイツ・メソッドは視力矯正法として伝えられています。
ベイツは視力回復のためには緊張の低下が有効だと説きました。
視覚と体の緊張は深いところでかかわっています。
フェルデンクライス・メソッドのエレンさんのセミナーでも、かつて視覚と体のテーマがありました。
アレクサンダーテクニークのビデオにも「視覚と体の緊張」がテーマのワークが入っています。
私はセンサリーアウェアネスで、それを極めて日常的な状況で体験しました。
「子どもの遊び場」で感じることができます。
でも、ジュディスさんは一切説明はしません。
「解釈しない」と言います。
自分の感じたことを、自分で解釈することさえ無用です。
体験を解釈することが、その『体験』のユニークさを失わせるからでしょう。
このワークでは、私は自分の「目」に注意を向けました。
「目に優しい」という表現があります。
コマーシャルでも使われます。
私がこのとき感じたのは、 本当に「目に優しい」というものがあることです。
でも、それは毎回、変化します。
今、見たものが目に優しいからと言って、見続ければ優しくなくなります。
「目に優しい」のは「形」、「色」、「大きさ」ではなく、「全体」です。
そして、そのときの目の状態によって、優しいかどうかは違います。
ですから、「目に優しいもの」であるのではなく、「そのとき、『優しいと『目が感じる』ものがある」のです。
これはわたしがそのとき「感じた」ものです。
あなたがそのように「感じる」かどうかは別ですよ。
このワークショップは1週間を3日間と4日間に分けているのですが、途中で用事のため抜けていた人が戻ってきて、夜のセッションから再参加しました。
井上ウィマラさんです。
ウィマラさんは大学の哲学科を中退し、ビルマに渡りテーラワーダ仏教で出家して僧になり、修行しアメリカに渡り、瞑想を教え還俗した人です。
今は子どもと親のコミュニケーションや、死のカウンセリングをしていると言います。
それで、このときのワークは・・・。あっ、思い出さない。
まぁ、思い出さないものは仕方ない。次に行きます。
と、書いておいたら、いっしょに参加していた細川さんから「宇宙遊泳でしたよ」とメールが来ました。
そうでした。
「宇宙遊泳」ね。細川さんの命名です。
センサリーアウェアネスのワークは、指導者の即興ですから、名前は付いていません。
名前に意味はありません。
ですから、ワークを受けた人が勝手に名付けて自分の記憶に残すことになります。
私は「捨てるワーク」と覚えていました。
これはチャールズ・ブルックスの書いた「センサリー・アウェアネス」に書かれているワークです。
パートナーの肘と手関節の外側を支えます。
パートナーはその腕の所有権を放棄します。
つまり、自分の腕ではないと思うのです。
パートナーの腕を支える方も自分の権利を放棄します。
「支える」だけで「動かそう」としないのです。
このようにして、どちらのものでもない2つの腕がコンタクトして、自然に動くようにします。
ノン・バーバル コミュニケーション(非言語的コミュニケーション)そのものです。
もちろん、パートナーは、「早すぎる」とか「痛い」は言って良いのです。
「子どもの遊び場」ではすべてが許されます。
そして、お互いの動きも許し合うのです。
そう、「許す」はセンサリー・アウェアネスのキーワードです。
これは「罪を許す」というような高いところから低いものを見るような意味ではありません。
論理情動療法のエリスは、Unconditional Self Acceptance(USA)とUnconditional Other Acceptance(UOA)と表現します。
また、ロジャースは「相手に思いやりを持っていること」と表現しました。
パールズは意地悪に見えるのですが、実は操作しようとしていません。
ただ、相手が意識せずに発した非言語的メッセージをを言語化して、質問を返しているだけです。
これもクライエントを受け入れ、許している態度です。
キネステティクスでは、「いっしょに動く」と表現されます。
「動かす」でもなく、「動かされる」でもありません。
ちょっとでも動ける人は、パートナーといっしょに動けるのです。
そのためには、より早く動ける方が時間を合わせなさいと指導されます。
このように、「許す」という言葉の中には、多くの状況に共通するものが含まれています。
逆に言えば、上に挙げたような例に共通するものを「許す(allow)」という言葉で表現しています。
ですから、センサリー・アウェアネスでは「自分の腕が頭の上の方に上がっていくのを許してあげましょう」という表現が可能になります。
自分で動かすのではなく、腕が天にのぼっていくのを、体の他の部分が邪魔しない状態にすることです。
キネステティクスでは、「一つのマスの動きが隣のマスに伝わります。
ツナギをゆるめて隣のマスの動きを許してあげましょう」と表現されます。
話を戻して、「宇宙遊泳」です。あなたの両側にひとりづつパートナーを置いて、両上肢を「捨てる」ようにします。
三人とも他の人の存在を許すと右のパートナーの動きが、あなたを通して左のパートナーに伝わり、それに対する反応が、あなたを通して右のパートナーに伝わります。
あなたが自分の「全体」を捨てると、あなた自身の体は自分の意志ではなく動きます。
両上肢の重さはパートナーの腕から、地球に流れます。
あなたは上肢の重さを感じなくなります。
まるで重力から解放されたように感じるかもしれません。
だから、「宇宙遊泳」なのです。
もし、あなたとパートナーがよけいな緊張をなくすと、お互いの「呼吸」が腕を通して感じられます。
これはあなたとパートナーの双方が本当に「許す」ことができたときに伝わるコミュニケーションです。
相手に何かさせようという「考え=欲」があると、それに邪魔されます。
じつは、わたしはこれは苦手。
なんと言っても、欲深い俗人ですから、他の人には「その欲を捨てなさい」と言えますが、自分で実行はなかなか大変。
だから、このようなワークショップに参加するのですが・・・。
でも、「捨てる」のは気持ちがよいものですよ。
何かの時には自分が大事だと思いこみしがみついているもの、たとえば信条と思っているもの、愛とおもっているもの、誠実と思っているものさえも「捨てる」と、楽になります。
そして、実は自分が「思っていたもの」はリアルではないと気づくかもしれません。
この夜はウィマラさんと、同室になりました。
翌朝、日の出とともに目覚め、6時から2時間話しました。
ウィマラさんは子どもの発達に興味を持ち、フロイトの口唇期や肛門期という分類に興味を持っているようでした。
お互いの知識を交換しました。
わたしがウィマラさんの疑問に答えました。
肛門機能、医学教育における死の概念、心臓死と脳死についてなどです。
私は大蔵経、「空」の思想とシステム理論についての質問をしました。
そのほかに、ピアジェの小児教育理論、ウィルヘルム・ライヒの「性格(体)の鎧」、フロイトの精神分析などが出てきました。
こんなことについて、ここで意見交換できるとは思っていませんでした。
こんな話題で話せる人はまれ。
また学習しました。
わたしはどこでも学習するという才能があるのかもしれません。
朝食の後は、「世界を感じる」ワークでした。
例によって、この名前は私が「感じたもの」からつけたものです。
ジュディスさん何も言いません。
みんなで輪を作り、目を閉じます。
一人一人の前に、ジュディスが「何か」を置いていきます。
それを目を閉じたまま、「感じます」。
手にとって触れて、動かして音を聞き、匂いを嗅ぎ、なめて味を知り、頭に乗せて重さを量り、持って動いてみます。
これはジュディスさんに、「こうして感じなさい」と指示されるのではなく、自分で好きなやり方で、「感じてみる」ことです。
ここは「子どもの遊び場」ですから。
私が手にしたものは、凸凹して、振るとカサカサ音がして、潮の匂いがして、しょっぱく、軽いものでした。
「なんだか、わからん」
いろいろ遊んでいるうちに、「目を閉じたまま、となりの人に手渡して、反対側の人から、次の『何か』を受けとってください」と言われました。
このようにして、10個あまりの「何か」を感じてみました。
その「何か」を感じる時間も、ゆっくりにしたり、早くしたりします。
すると感じるものが違ってきます。
それぞれの感覚には「感じるのに必要な時間」があるようです。
また、「あっ、これは木だ」と思った瞬間、「今、ここ」で触れている「何か」を忘れます。
自分が「木」として記憶しているものとすり替わります。
一般意味論と人間性心理学の世界です。
最初に感じたものが戻ってきたところで、ふたたび、感じてみて最初の時との違いを感じます。
最初の時と、2回目では当然違うものを感じます。
もちろん、「何か」が変わったのではなく、「わたし」が変わったのです。
ベイトソンは、「同じ女性と初めての夜は二度とない」と書いてあることが、ここで起こっています。
「今、持っているものと会う準備ができたと思ったら、ゆっくり目を開けてください」
それは、私が目を閉じて触って感じていた「何か」とまったく別の姿をしていました。
なるほど。
その「何か」は内部に多くの空間を持っているのが見えました。
目を閉じているときには「感じ」られなかった空間が見えます。
しかし、これは「その空間がある」と言うのではありません。
目を閉じていた私にはなかった空間です。
「その空間」には、わたし自身は入れません。また、わたしの体の中で最も細いさえも入りません。
だから、触れられません。
その空間はわたしにとって、「存在しない空間」なのです。
この「存在しない空間」を、わたしは「見て」います。
もし、見えるけれども、わたしにとって「存在しない、この空間」をリアルだと思ったら、わたしは「この空間」に到達できないことを苦しく感じるでしょう。
もし、ピンセットを持っていたり、わたし以外の指のとても細い女性だったりしたら、この空間はリアルです。
しかし、わたしにとっては、この空間はリアルではありません。
この空間は、わたしにとってリアルでないことを知ると、わたしは「リアルな空間」を知ることができます。
自分の影響の及ぶ空間の境界を知ります。
境界を知ることは図と地を作ることです。
ゲシュタルトが完成します。
自分が到達できない空間と知ると、「狂気の発言」がなくなります。
エリスの説くところです。
また、わたしが自分の存在できる空間を知ることで、リアルな空間を知ることができます。
グルジェフの書いた第3シリーズ、「生は<私が存在し>て初めて真実となる」は、まさにこのことでしょう。
と、私は自分が「感じたこと」をもとに「考え」ました。
このように、「感じたこと」と「考えたこと」を分けることが、一般意味論で説かれ、グルジェフも言っていたことです。
このようにして、私の3泊4日のセンサリー・アウェアネスのワークショップ体験は終わりました。
あっ、そうそう、ジュディスさんに「一般意味論を知っていますか?」と聞きました。
「もちろん、シャーロット・セルバーは一般意味論のセミナーに行って教えていたし、私の友人で一般意味論とセンサリー・アウェアネスの両方の指導をしていた人もいました。」
さらにいろいろ話していたら、「パールズはシャーロットの生徒として何度もセンサリー・アウェアネスのセミナーに参加していました。また、ドイツでもヤコビーのセミナーに参加していました」と話してくれました。
なるほど。
センサリーアウェアネス、一般意味論、ゲシュタルト療法の3つが私の中ではめ絵のようにぴったりと合わさりました。
ジュディス・ウィーバーさんとの楽しい4日間でした。
センサリー・アウェアネスはとても、微妙です。
しかし、「気づき」の大切さを理解すれば、どこででも気づけます。
そして、気づくと日常の生活でも「探検」ができて、発見ができます。
そして、日常生活で気づけることがセンサリー・アウェアネスのねらいです。
こうして、シャーロット・セルバーは一生を楽しみました。
ジュディスは来年、カナダで2週間のワークショップをすると言います。
可能な人は参加することを勧めます。
日本では参加者を集めるのが大変ですから、いつ行なわれるかわかりません。
もし、開催されるとわかったら、ぜひ参加することを勧めます。
手作りで主催した山地さん、そして細川さんはじめスタッフの皆さん、そしてジュディスさん、ありがとうございました。