4次元の意味論

 「科学と正気」の前書きで、カーシブスキーがアリストテレス的考え方と非アリストテレス的考え方の違いとしてあげているうちの一つが、「時間」の概念の使い方です。

旧来のアリストテレス的思考
(ほぼ紀元前350年)
新しい非アリストテレス的思考
(1941年)
14 (3+1)次元。つまり、縦、横、高さの「3次元空間」に、「時間」を足している。

 時間を空間とは別物として使っている。
 4次元空間で生きている。

 時間を空間と同じように使う。

 アリストテレスは論理的な思考として、「AはAである」という表現でものごとを定義することにしました。

 この表現は「時間の経過」を含んでいません。

 「いつでもAはAである」と考えています。

 たとえば、日本人と日本語の関係についてアリストテレス的表現を使うと、「日本人は日本語を使う」となります。

 だから、「正しい日本語を使え」と主張する人が出てきます。

 この表現では、「日本」という「空間」を指定しています。

 しかし、「時間」については考えていません。

 「空間」に与える重みと「時間」に与える重みが違います。

 カーシブスキーは、「ものごとは時間とともに変わるかもしれない」と教えました。

 今、ここでAと見えたものも、1秒後にはBと見えるかもしれません。

 今、言葉で定義できることは、「今、ここで」見えることです。

 1年後、1ヶ月後、1日後、1秒後には違うかもしれないのです。

 ですから、ものごとを考えるときに、「空間」とともに「時間」についても同じように指定して考えるようにしなければなりません。

 現代の日本語は昔の日本語と違います。平安時代どころか、明治時代とも違う言葉を使っています。

 それなのに、「日本語」というものが永久不変であるかのように「日本人は日本語を使う」と表現することが、「言葉の世界」と「現実の世界」の食い違いを生みます。