というわけで、「言語」というものがはっきりします。「言語」以外は「非言語」です。
つまり、体験の中の「記号化されないもの」はすべて「非言語」です。
多くの場合、「共通体験している行動そのもの」が、「非言語」というコミュニケーション手段であり、「共通体験から感じていること」がその意味になります。
上のイラストで、一緒にカヌーに乗っている行動が「非言語」であり、その体験で感じることが意味になります。
共通の体験をすると、その「体験」を同じ「言葉」で表現できます。
それによって、同じ「言葉」で、同じ「意味」を受け取ることができます。
ただし、「言葉」自体は、共通体験のすべてを表現してはいません。
言葉は体験を記号にしたもの=抽象化したものでしかありません。
小学校時代の友人、戦友、苦しいときにともに仕事した人々、長く一緒にいた夫婦が、お互いに分かり合えるのは、共通の体験から「同じような辞書」を持っているからです。
「身振り」や「身体的態度」、「姿勢」は「言語」にも、「非言語」にもなり得ます。
それはAやBが、その行動を「記号」として考えているか否かにかかります。
前の例で、もしBが「この文化では、手を振ることは『さよなら』を示す」などの考えを持って、手を振れば、それは「非言語」ではなく、身振りによる「言語」=ボディランゲージになります。
サイバネティクスのページで、ウィナーが野蛮人と二人で残されたときのコミュニケーションについて書いたことを紹介しました。
そこも参照してください。
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