非言語的コミュニケーション
 ここで、、言葉、言語、記号を区別してみます。

 人の「内側の世界」に「意味を作る刺激」は、「言語」と「非言語」があります。

まずは、「言語」から考えましょう。

 
何かの体験を抽象化すると「記号」になります。

 「記号」を思考、コミュニケーションに使うと「言語」になります。

 「言語」を文字や音声にすると、「言葉」になります。


 「共通の体験」があると「言葉」は受け手を刺激して、受け手の中に「意味」を作ります。



 というわけで、「言語」というものがはっきりします。「言語」以外は「非言語」です。

つまり、体験の中の「記号化されないもの」はすべて「非言語」です。

多くの場合、
「共通体験している行動そのもの」が、「非言語」というコミュニケーション手段であり、「共通体験から感じていること」がその意味になります。

上のイラストで、一緒にカヌーに乗っている行動が「非言語」であり、その体験で感じることが意味になります。

 共通の体験をすると、その「体験」を同じ「言葉」で表現できます。

それによって、同じ「言葉」で、同じ「意味」を受け取ることができます。


 
ただし、「言葉」自体は、共通体験のすべてを表現してはいません。

言葉は体験を記号にしたもの=抽象化したものでしかありません。

 小学校時代の友人、戦友、苦しいときにともに仕事した人々、長く一緒にいた夫婦が、お互いに分かり合えるのは、共通の体験から「同じような辞書」を持っているからです。

 「身振り」や「身体的態度」、「姿勢」は「言語」にも、「非言語」にもなり得ます。

それはAやBが、その行動を「記号」として考えているか否かにかかります。

 前の例で、もしBが「この文化では、手を振ることは『さよなら』を示す」などの考えを持って、手を振れば、それは「非言語」ではなく、身振りによる「言語」=ボディランゲージになります。

 サイバネティクスのページで、ウィナーが野蛮人と二人で残されたときのコミュニケーションについて書いたことを紹介しました。

そこも参照してください。


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