ロビンソン・クルーソーは無人島に漂流した人の話です。
ロビンソンはある日、人食い族が島につれてきて殺そうとしていた男を救います。
その男にフライデーと名前を付け、英語を教えて、ともに生きます。
ノーバート・ウィナーが「サイバネティクス」の中に書いています。
気がついたときには、一人の知的な野蛮人とともに、森の中に置き去りにされたと想像してみましょう。
お互いに相手の言葉がわかりません。
しかし、二人の間に共通な記号による「言語」がなくても、わたしは彼について多くのことを知ることができます。
彼が何らかの感情や興味を示したその瞬間に「注意」するだけでよいのです。
そのときに周りを見回して、彼が目をやった方向に特に「注意」し、見えたり聞こえたりするものを覚えておきます。
このように観察していれば、言葉で言われなくても、彼にとって重要と思われるものが、すぐにわかるようになるでしょう。
本来、意味のないものでも、彼が見たときに、彼の心の中に何らかの意味を作り出すことがあります。
その時にわたしがそれを見ていれば、わたしの心の中にも意味を作り出すことでしょう。
それがサインになります。
そうすると、わたしが特に積極的に「注意」を払っている瞬間を捕らえる彼の能力、それ自体が一つの言語になります
(訳注 お互いの共通の体験を、そのサインで示すことができるようになります。つまり、サインは「言葉」になります)。
そして、二人の心の中にさまざまな「感じ」が共通に作られるように、その言語もさまざまな可能性を持っています。
このようにして、社会を作る動物は「言語」が発達するよりずっと前から、積極的で、知的で、自在に使えるコミュニケーションの手段を持つことができます。(Cybernetics p.157 翻訳 さあさん)
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上の赤い文字で書いてあることは、はっきりした「言語」によらずに、コミュニケーションする段階が最初にあるということです。
そのあとに、いわゆる「言語」が発達し、抽象化した概念を語ることが可能になります。
体験から「感じ」でコミュニケーションを学習し、そのあと言語化できるようになります。
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