幸福と介助



 「優しいさわり方」とは、相手に「自分の存在」に気づくチャンスを提供するさわり方です。

 押しつけたり、力任せでは優しく感じません。

 優しいとは、力を誇示することではありません。

 びくびくしていては、優しく触ることはできません。

 優しく触ることをマニュアル化もできません。

 相手に対する興味を持って、その人の存在を受け入れるながら、必要最小限の力でふれるとき、「優しいさわり方」になります。

 介助者が被介助者の存在に興味を持ち、その人の動きを知ろうとして、一緒に動くつもりでふれるとき、「優しいさわり方」ができます。

 「優しく触ろう」と思った瞬間、優しくなくなります。

 なぜなら、その瞬間に、相手を受け入れよう、知ろうとしてふれるのではなく、「触ろう」と意図しているからです。



 「優しさ」は相手を受け入れることです。

 こちらの意図を押しつけようとするとき、そこに「優しさ」はありません。

 「優しさ」は相手に自由を提供するときに発生します。

 自分の持っている能力・権限を最大限に提供して、力を最小限にするとき、相手はそのとき可能な自由を最大限に享受できます。

 このような体験が「優しさ」として受け取られます。

 「優しさ」は言葉ではありません。

 行動、態度で伝わります。



 このような「さわり方」で介助されると、被介助者は自分の存在感を強化されるでしょう。

 これが幸せの元です。

 ほかの人間から、自分の存在を認められ、興味を持たれ、触れられるとき、人間は自分の存在をはっきりと感じます。

 なぜなら、赤ん坊で言葉も使えないうちから、周囲の人間と接触によりコミュニケーションして学習してきたからです。

 接触による体験学習の後に、言葉によるコンタクトを学習しています。

 ですから、言葉で優しそうなことを言っても、さわり方がガサツな人は、被介助者の幸せを奪います。


閑話休題  身勝手で強欲な介助者

 「被介助者に幸せになって欲しい」と言う介助者がいます。

 でも、「・・・欲しい」と言うのは、文字どうり介助者の欲です。

 たぶん、気持ちは「被介助者が幸せになったらとうれしい」ということでしょう。

 「・・・ほしい」という表現が自分の欲を押しつけているかもしれないことに気づいていません。

 自分がそのような欲を表現していることに気づけば、変ることができます。

 欲を捨てることもできます。

 欲を持ちながらも、押しつけることだけはやめることもできます。

 自分の表現の小さな違いに気づけば、「優しいさわり方」が自然とできるようになるかもしれません。

 表現とは、心の中にあるものを外側に出すことです。

 そして介助は、ダンスや演劇と同じように身体を使った行動による表現です。