為すこと・すること・起こること


 ウィルヘルム・ライヒの「性格分析」を解説したページで、 マタイによる福音書26章35〜56(新共同訳)を引用しました。

 イエスがローマ軍兵士にとらえられる前に、ゲッセマネの園で祈りを上げる場面です。

 おなじ場面を流用します。



 ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。

 弟子たちも皆、同じように言った。

 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。

 ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。

 そして、彼らに言われた。

 「わたしは死ぬばかりに悲しい。

 ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。

 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。

 「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。

 しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」

 それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。

 「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。

 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。

 心は燃えても、肉体は弱い。」

 更に、二度目に向こうへ行って祈られた。

 「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」

 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。

 ひどく眠かったのである。

 そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。

 それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。

 「あなたがたはまだ眠っている。

 休んでいる。

 時が近づいた。

 人の子は罪人たちの手に引き渡される。

  立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

 イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。

 祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。

 イエスを裏切ろうとしていたユダは、

 「わたしが接吻するのが、その人だ。

 それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。

 ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。

 イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。

 すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。

 そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。

 そこで、イエスは言われた。

 「剣をさやに納めなさい。

 剣を取る者は皆、剣で滅びる。

 わたしが父にお願いできないとでも思うのか。

 お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。

 しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」

 またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。

 わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。

 このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」

 このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった



 私はキリスト者ではありません。

 ですから、聖書の記述を自由に読むことができます。

 そして、信仰という先入観なしに、自由に読んでみると、ここにはグルジェフが書いたと同じことが、比喩として書かれています。


 ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言ったのです。

 しかし、結局、ペドロを含めた弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまったのです。

 ちょっと前に、自分が言ったことさえ、覚えていなかったのです。


 イエスは、使徒たちに「わたしと共に目を覚ましていなさい」と言いました。

 しかし、使徒たちは、眠りこけてしまいました。

 「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか」とイエスに言われました。

 それも3度も同じように眠りこけてしまったのです。

 イエスに忠誠を誓った使徒でさえ、このように眠っててしまうのです。

 自分がしていることに気づき続けていられないのです。

 それが人間の姿です。


 では、わたしたちは、「常に目覚めていないとならない」のでしょうか?

 グルジェフの弟子だったウスペンスキーは、”The Fourth Way”のなかで、「そんなことはできない」と書いています。

 ただ、「気づいているように努める」ことだけができます。

 これはセンサリー・アウェアネスで体験することと同じなのです。



 重大な注意

 このような文章を書いているからといって、誤解しないでください。

 私は「いつでも気づける人間」ではありません。

 わたしはとても怒りっぽくて、ひねくれていて、扱いづらく、わがままな人間なのです

 嘘だと思うなら、私のセミナーを受けた人に聞いてください。

 ただ、わたしは、何かをした後で、「自分が気づいていなかった」ということを気づくことができます。

 後から気づくので、その前に必ず「失敗」をしています。

 その失敗が痛ければいたいほど、次の行動が修正されます。

 そのような失敗と試行錯誤による「学習」のサイバネティクス・システムを認めて、受け入れて生きていくことができます。

 そのへんが、他の人とちょっと違うかな。


 いつも気づいていることはできません。

 ときどき、気づくとラッキーです。

 あなたも、一度「気づいた」ら、その頻度を増やすようにつとめると、楽になるかもしれません。

神秘主義に戻る