この「生命力」を指導する人は、両親でも、学校の教師でも、スタジオの芸術家でも、誰であろうと、多くの知識を持っていなければならないと感じるでしょう。

 幼児から成人までのさまざまな成長段階で見られるさまざまな表現方法と同じくらい多くのものが必要です。

 生きるために必要なことは、「とどまらない」ことです。

 とどまらないということは、そのときそのときに「環境」の、または自分自身の、調和を回復させるために行動することです。


 人の行動を理解するために環境を理解することが役立つように、人の生物学的精神的特質を理解するのに科学的知識が役立ちます。

 しかし、人を「生きもの」として理解しようとするならば、科学者になるための科学では役立ちません。

 そんなものではなく、人生を生き生きとさせている「生きる」というプロセスについて理解するのに役立つ知識を求めなければなりません。


 生まれながらに持っている「感情」が、自分のすべての行動に影響を与えていて、自分がそれに反応していることを理解しないと、精神的成熟はできません。

 自分がさまざまなものを感じ、さまざまなものに反応し、変化している「生きもの」であることを理解しなければなりません。

 
これは人の精神的行動を決定する感情的素質に関係してきます。 

 科学的知識は人間特有の肉体的資源を探る方法を提供できます。

 体験していることの「量」を客観的に扱うのに有効な手段を提供できます。

 それらの方法手段は一定で変わらないもの(訳注 長さ、質量などの物理量のこと)を示してくれます。


 しかし、もっと微妙で直感的で感覚的なものは説明できません。

 これらは体験の「質」だからです。

 これらはぼんやりしていて実体がないとはいいながら、そこにあることは事実ですし、人の行動を起こさせるのに必要で強力な「衝動」として実在しています。


 とはいっても、科学的知識はまったく役立たずではありません。

 人間が生まれながらに持っている多くの資源を認識するのに役立てることができます。

 しかし、それでも、文明のいろいろな段階を通して、人がどのようにして人生の意義を見つけたかということを理解しようとするならば、哲学、宗教、芸術という文化の人間性についても語らねばなりません。


 人々の知識や経験が深まると、新たな価値が発見されます。

 そして、そのプロセスの中で、感覚的な価値と関心が変化し、文化はいろいろな段階を呈します。

 そして、その最終段階として、人は「真実」と「美」に対して与えた自分の評価を、自分が感じたように伝え、表現し、コミュニケーションしたいと願います。

 芸術的知識は、この宿命的な欲求を理解するのに役立ちます。


 この芸術的知識はすべての人にとって価値のあるものです。

 教育者には、自分が担当する教科についての専門的知識が必要です。

 それと同様に、生徒のいろいろな関心や感覚的反応に答えるための資源の宝庫として、芸術的知識を役立てるためには、文化的なこと全般についてのバックグラウンドが必要です。