ものごとについての知識を与えると同じように、感覚を伸ばし発達させることも教育者の責任です。

 人は自分自身の体験から、感覚を通して「何か」を得ます。

 しかし、そうして得たものが生命にとってどんなに重要な役割を担っているかについてはほとんど知りません。

 人の持って生まれた特性の中でも、「感じる能力」は、特に基本的な上に、生物に役立つ行動に深く根ざしているので、無視することも、それなしで生きることもできません。


 「感じる能力」があったから、生き延びています
し、人生が生きる価値のあるものになっています。 

 この「感じる能力」が、持っているすべてのエネルギーを使って、肉体的にも精神的にも、「自己」の全体を統一する方向へ動かします。

 「感じる」というプロセスについてはまだ完全に解明されていません。

 発展中です。しかし一般的には、ある刺激が与えられ、それが自分にとって価値のあることとして「認識」されてから、「感じ」が生じると認められています。

 「これは良いことか、悪いことか?」「重要なことか、たいしたことないか?」

 「感じ」を起こす刺激や、今まで得てきた似たような経験に、判定や意味付けは影響されます。

 それから解釈されて、決定されたものが、体を実際に動かすための信号となります。

 体が行動するための準備、体の奥深くからの変化による緊張に気づくことが「感じること」です。

 ここに理解と分別が介在し、先天的な反射を制限し、意識的にコントロールします。

 こうなると、動きに個性的な違いが出て個人としての「選択」が現れます。

 もし、素朴な生来の反射のまま、生物としての危険信号にだけしたがって行動すれば、個人としても文明としても進歩・発展はありません。

  「感じる」ということは人の生まれながらの資質です。

 わたしたちはそれを理解し、ガイドしなければなりません。

 「感じること」をコントロールするということは、「感じること」を抑制することではありません。

 しかし、抑制する必要がないなら、なぜ「感じること」をコントロールする必要があるのでしょう?

 それは、わたしたちを動かす動機となる原動力に手綱をつけて、創造的な目的へ向けてガイドしなければならないからです。

 「自己」を知ることで、自分で判断し、選択することができるようになります。

 そうすると、抑制が解かれ、効果的で創造的な努力への邪魔ものがなくなり、セルフ・コントロールと安心が得られます。


 残念なことに世の中では、「創造性」という言葉は、誰もが持っている能力についてではなくて、芸術家または天才肌の人に備わっている天賦の才能について語る言葉と考えられています。

 しかし、天賦の才能のまったくない人でも、本当に些細なものを作る創造的な努力をするだけで、もっと才能豊かな人が努力したのと同じ精神的な満足を得られます。