このような筋肉・呼吸・循環を締め付けている抑制を捨てたときに、この「内的世界」についての理解と平行して、「外的世界」に対しても、今までよりもオープンな関係を持てるようになりました。

 当然、庭いじりの趣味にとっても喜ばしいことでした。

 それまでは立ったり座ったりするときには、毒づいたり、うめいたりしていましたし、腰もとても痛く、ほとんどの内臓を体の真ん中に押しつけて締め上げることで吐き気がするほどだったのです。

 (これらの事実には気づいたのは、この実験の後でした。いまでは、呼吸と循環のために上体にたっぷりの余裕を与えながら股関節から曲げて、上体をぶら下げるようにすることがどんなに楽かよくわかっています。)

 今は立ったり座ったりが楽しいほどです。簡単に力強く動けるとわかるために多くの時間をかけ、それを感じられたことはすばらしいことでした。



 自分自身の内部の微細な変化に寛容であわてなかったことで、自分の周りのものとの関係についても、寛容であわてなくなったことに気づきました。

 雑草を抜いているときにも、その雑草ごとの違いを感じ、それに対応できるようになりました。

 長くて切れやすいハコベの茎を、時間をゆっくりかけて、芝生の中から探り出し、小さな絡まった根を引き抜きとりのぞけるようになりました。

 長くて頑丈なタンポポの根をちぎって他の所へまき散らすこともなく、適切な強さで適切な方向に引いて抜くことができます。

 滑りやすい雑草を適切な強さでつかんで根から引き抜くことができます。

 これらのことを雑草が攻め込んでいる大切な花を傷つけることなくできるのです。

 これらのことは知的なことではありません。純粋なセンサリー・アウェアネスです。


 おなじように、自分が植えている花にも思いやり深くなりました。

 根を張るのに必要な深さはどのくらいだろうか?

 大きくなったときに混み合わないだろうか?

 形の美しさ、手触り、光の当たり具合、花・葉・土のにおいにオープンになりました。


 どこまで行くのでしょう?

 これは行き着くところがあるのでしょうか?

 植物の求めるものを感じてそれに応えられるようになればなるほど、自分の子ども、友人、そのほかの何に対しても、聴いて応えることができるようになります。


 セミナーで、しゃがんで立ちあがったときに問われました。

 「どう、具合いいでしょ?」

 今、答えます。「そのとうり!」