C 医学部教授

 タサハラでひらかれたワークショップは、私にとってとても大きな意味を持っていました。

 (注 タサハラでは、著者たちはアメリカの禅センターと一緒にワークショップをしています)

 私の顔、態度、存在そのものから、その時の感動が周りに見えていたと思います。

 皆さんにははっきり分かっていたでしょうが、それでも、自分の感じたことを書いておきたいと思うのです。


 私は子どもの時から、「感じる」ということを大切にしてきました。

 目を細めて視野をわざとぼやかして、水面に踊る抽象画のような光と影を見るのが好きでした。

 夜の静寂の中にひそむ音を聞き、古い家の匂いを嗅ぐ、そんなたぐいのことが好きでした。


 しかし、ワークショップの時には、そんな体験を超える予想もしなかったものが分かるようになりました。

 何が見えるのか、何が聞こえるのか、何が匂うのかではなく、「体で感じられるものは何でも感じられる」ということを受け入れられるようになりました。


 自分自身の中にあるもの、自分のまわりの自然界、他の人との関係、すべてを感じられます。

 もちろん、自由な心で、予行練習もない、予定もないままに、体で感じていくことは私にとって、新しい探検に出るようなものなので、慣れるのに時間がかかるでしょう。


 パートナーの手から自分の手へ、そして自分の手からパートナーの手へと、ボールを行ったり来たりさせたときには、これが本当に、「与えることと受取ること」なんだと気づきました。

 これに匹敵するすばらしい発見は今までありませんでした。


 約束事もなく、駆け引きもなく、予想することもなく、過去もなく、未来もなく、ただ与え、ただ受取ること。

 何が流れているのでしょう?

 何に似ているのでしょう?

 何が起こっているのでしょう?・・・


 53年間生きてきたのに、他の人から何かをもらったと思ったことはありませんでした。

 半年前までは、単純に、十分に、素直に、ありがたく、何かを受取ることなどできませんでした。

 ボールを渡されたときに初めて、他の人に与えることができ、他の人から受取ることができるというすばらしい能力に気づいたのです。


 そのとき、文字どおり、突然、全く違う「存在」の世界に運ばれたように感じました。

 涙が出ました。

 恥ずかしくはありませんでしたが、照れくさかったです。

 もっと上手に表現するならば、私は感激していました。

 でも、個人的なことですから、それを見せたくなかったのです。

 誰にも気づかれないように黙って坐りました。

 そのとき、はっと気がつきました。隣にJがいる。

 Jは黙って私の腕に指を当てていました。

 「もし、私が必要なら、ここにいるわ」と言うように。

 私はJの膝に顔を強く押しつけて声もなく泣きました。

 その一瞬を、Jだけが共有しました。


 しかし、私はあの瞬間をあなたと共有したかった。

 あなたがその一瞬をもたらしたのですし、もし、あの一瞬をあなたと共有していれば、ここにどんな言葉を書くよりも、あのワークショップの時の魔法のような一瞬に、わたしにおこったことがよくわかってもらえると思うのです。