「方法序説」を読むと、デカルト自身、断言を避けているのが読み取れます。
まだまだ、科学が進歩していないために、「あぶないな」と思っているようです。
しかし、コージブスキーなら、「・・・かも しれない」とか、「・・・とわたしは思う」でやめるだろうところを、デカルトは、ソクラテスがしたように「神の御業(みわざ)」にしてしまいました。
今の科学常識で見る と、「方法序説」に書かれている心臓の働きなどでたらめな神話です。
たとえば、デカルトは、心臓の働きについて、心臓には「熱」があるから、入ってきた血液が、熱で膨張すると言います。
そして、血液の体積がふくらむので、弁の働きにより一方向に流れるというのです。
では、どうして血液が心臓に入ってくるのかというようなところは、「神の御業」なのです。
「知らない」と言っておけば良いのですが、当時の社会では、神、つまりキリスト教会に逆らうことは、罪だったのです。
デカルトは、「賢く」、このように人間の知りえないものは神の決定と して認めました。
こうして、デカルトの科学的考え方は教会に圧迫されることなく、科学革命を起こし、現代科学の礎となりました。
しかし、物理・化学に有効であった「二元論」は、「生き物」についての理解を障害したのでした。
それが、未だに影響しています。
人間の体を、「物の集まり」としてみる「科学」が横行しているのです。
自分の感覚で「内側の世界」を知ることしかできない存在であるのに、「感覚」や「からだ」を認めず、数値だけで判断する医学や看護が広まっているのが、現実です。
あーっ、困ったもんです。
「体の感覚」のページは、必ず読んで、試してください。
体で試さない人は、ここに書いていることを読んでも意味がないと思います。
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