「方法序説」より
自分がなんであるかを素直に検討すると、自分にはからだがないと考えることもできるし、自分が存在できるような世界も場所もまったくないと考えたっていい
ことに気がついた。
でも、だからといって自分自身が存在していないとは想定できない。
それどころか逆に、ほかのことの真実性を疑おうとわたしが考えたというまさにそのことから、わたしが存在するということはきわめてはっきりと疑いなく導かれるのだった。
一方で、わたしが考えるのをやめただけで、わたしが想像してきたものがすべて現実に存在するとしても、わたしは自分が存在すると信じるべき理由を持たな
くなる。
だからわたしは、自分というのは、その本質や性質が考えるということだけからできあがった存在なのであり、それが存在するにあたっては、場所や物質的な
ものには一切依存する必要がないのだ、と結論した。
だから「わたし」、つまりわたしがわたしであるところの精神は、肉体からは完全に独立したもので、肉体よりもずっと簡単に知り得るもので、肉体が存在しなかったとして
も、今とまったく同じように存在し続けると
いうことになる。(山形浩生 訳) |
これが、精神と肉体は別物という「心身二元論」となりました。さらに、不幸なことには、肉体は精神の下に置かれたのです。
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