そうして、ソ クラテスが出てきます。 ある日、ソクラテスの友人が「ソクラテスより賢いものがいますか」とデルフォイの神託を仰ぎました。 「いない」との神託が下りました。 ソクラテスは自分が賢いとは思えませんでした。 もっと賢い人がいるだろうとおもいました。 「私は何にも知りません。無知な 人間ですから、教えてください」と言ってとソフィストに問いかけました。 ソフィストはソクラテスの問いに答えるうちに、答に窮するようになります。 当然なのです。 すべてのことを知っている人間など存在しません。 ですから、古 代の人はそのような存在を仮定し、または直感し「神」という名前を付けました。 ある質問をして、その答の中で、より根源に向かうような質問を繰り返してい けば、最後は「神がそのように決めている」と答えざるを得なくなります。 その意味は「私は知らない」です。 そういう点で、宗教は完全です。 「神の御心は人には計り知れないところにある」と言えば、すべては説明されます。 というか、説明しないですみます。 このようにしてソクラテスはソフィストを打ち負かしていきます。 そうしているうちに、若者がソクラテスの周りに集まってきました。 若者たちはソクラテスを通して学習しました。 そのなかに、プラトンがいました。 実は、ソクラテス自身は何も教えはしないのです。 ソクラテスは「自分は何も知らない」と主張して いるのですから、教えることはできません。 ただ、知らないから教えてと「問うこと」だけをします。 すると、相手は自分の納得できる回答をします。 この答は 相手の中でできたものです。 ソクラテスの母は産婆でした。 ソクラテス自身も産婆術を学んでいました。 ソクラテスは「わたしは生むことはできない。産婆である。私は問うことで相手が『自分の考え』を産むのを手伝うことしかできない」と言いました。 ソクラテスの産婆術と呼ばれます。 ソクラテス本人も弁論術には長けてい たのですが、本当に賢いのは自らを「無知である」と認めたことです。 よ く考えれば、当然のことなのですが、中途半端に賢い人は、自分は知っていると思うのです。 「なにかを知っている人」と「なにも知らない人」では議論になり ません。 議論していると思っているソフィストは答えられなくなり、ソクラテスにやりこめられたと思います。 高額なお金を取り、弁論術を教えるソフィスト達は、お金も取らず若者が自分の考えを生み出すことを手伝うソクラテスのことを煙たがり、訴えました。 その 記録が「ソクラテスの弁明」です。 若者を扇動してよこしまな教えを説いていると訴えられました。 ソクラテスは自分は議論はしていない、ただ問うているだけ だと主張しました。 しかし、認められずに、死刑を宣告され毒杯をあおりました。 「悪法も法なり」という言葉を残しました。 裁判でのソクラテスの言葉をプラ トンが書き残し、「ソクラテスの弁明」となりました。 |
|