今、おなかをさすったり、頭をたたくときに、何を考えていましたか?
「人間は考える葦である」という言葉を理解すると同じような「思考」をしたでしょうか?
たぶん、そんな抽象的な思考はしていないでしょう。
自分の体の一部の「頭」と「おなか」のイメージに、自分の「手」のイメージを、重ねたり、ぶつけたりしながら、実際に、そうなるように体の各部分を動かしたでしょう。
もちろん、それは動こうとして行った「思考」なのですが、抽象的ではありません。
きわめて具体的でした。記号まで抽象化した「言語」は必要ではありませんでした。「イメージ」だけで「思考」できました。
このように、「イメージ」をつなげるだけでできる「思考」もあります。
しかし、抽象的思考をするためには「内言」が必要になります。
犬や猫などの動物も「考える」ことはできます。
しかし、過去の経験をもとにして論理的に行動をすること、つまり抽象的な思考をすることはできません。
犬はポーカーをできません。内言を持たないので、「手役」という抽象的思考をできないからです。
良いカードがくると、すぐ尻尾を振るのでばれるからではありません。
人間は「内言」を持つので犬や猫より抽象的な思考をできるようになりました。
しかし、抽象は諸刃の剣でした。
愛、真実、善悪、道徳、常識という抽象的な言葉にとらわれる人が出るようになりました。
もし、「悪の帝国」などという抽象的な言葉がなければ、戦争は起きないかもしれません。
このことは、一般意味論で書きました。
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