日本人は「内言」に、日本語の構造と語彙を使います。
アメリカ人は英語の構造と語彙、ロシア人はロシア語の構造と語彙を使います。
「外国語を学ぶことは、その国の考え方を学ぶことだ」とか、「英会話を学ぶには、英語的発想が必要だ」と言われます。なぜでしょう?
「内言」には「外言」と同じ構造と語彙が使われるからです。
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英語 |
日本語 |
I went shoping with my friends yesterday. |
昨日、友達と買い物に行きました。 |
英語では主語が明示されます。
英語では「誰が行なったのか」が一番先に語られ、「何が起こったか」が語られ、その後で状況が説明されます。
アメリカの社会では、常に「誰が責任をとるか」が問われ、裁判になります。
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日本語では主語は不要です。
日本語では、「状況」が説明され、「何が起こったか」が語られ、「誰が行なったか」は語られなくても不思議ではありません。
日本の社会では、問題が起きると、「どうやってしのぐか」または、「隠すか」が問われ、責任の所在は不明なままで解決(?)されます。
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このような外言の性質が内言の性質を決め、思考を制限します。
上にあげた簡単な文で考えてみましょう。
まず、構造です。
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アメリカに生まれた子供は、外言として英語を習得します。
そのプロセスで、つねに主語をつけること、つまり「誰の責任か」を明示することを学習します。
その学習が内言の構造として「責任の所在が大切」という性質を作ります。
このようにして、内言から思考を作った子供は、「責任」ということを重要視します。
この子供が成長し、アメリカの社会を作ります。
日本に生まれた子供は外言として日本語を習得します。
「状況」を述べることが先です。昨日なのか、明日なのか、友達といたのか、ひとりだったのか。
もし、状況から推測できるのならば、「誰が行なったのか」は明示されません。
「私がやりました」というのは、強調したいときだけです。
このようにして、日本の子供は、行動の主体よりも、状況の方を重要視する構造を、外言として習得します。
この構造が内言に受け継がれ、状況を重要と思考するようになります。
このような思考の構造を受け継いで、子供は成長し、日本の文化を作ります。
「言語は文化であり、文化は言語」なのです。
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次に、語彙をみてみましょう。
日本語 |
英語 |
わかったかい? |
Do you understand? |
わかってるよ! |
I knew it! |
わかったわ。 |
I see. |
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日本語の「わかった」は、英語では状況により、understand, know, see などの言葉に翻訳されます。
同様に英語のsee は状況により「見える、わかる、調べる、医者に診てもらう、見送りする」などさまざまに翻訳されます。
see という単語の語彙は英語という文化の性質を受け継いでいて、日本の一つの単語で表現できません。
「わかる」という単語の語彙は日本文化の性質を受け継いでいて、ひとつの英単語では表現できません。
多くの人はある物体をみたときに、何らかの言葉を当てます。
「そのもの全体」は大きすぎて、思考の対象にするには不具合ですから、言葉という「記号」で全体を代用させます。
その言葉の語彙が、日本語と英語で違うのです。
その語彙は文化の影響を受けています。
ですから、日本人とアメリカ人が同じものをみても、その中に見いだす意味は違います。
言葉を培ってきた文化が違い、その文化が外言の構造と語彙に影響し、その外言が内言を作り、内言が抽象的思考を支配するからです。
これが、「内言には外言と同じ構造と語彙が使われる」と言う言葉の意味です。
自分の話している言葉に耳を傾けたときに、「自分が本当に考えていたこと」がわかります。
「文章にすると、頭の中が整理される」のも、内言と外言の構造と語彙がほとんど同じだからです。
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