認識と認知

 認識と認知。どう違うのでしょう?

 実は内容は同じです。

 ただし、使われる分野が違います。 「認識」はもともと哲学用語でした。

 「ギリシア哲学からデカルト」のページで示したように、哲学は存在論(ontology)と認識論(epistemology)の2つからできていました。

 存在論は「それは何(what)であるか」を問い、認識論は「それはどのよう(how)であるか」を問いました。

 デカルトは、「我思う故に我あり」と言いました。

 ラテン語では、"Cogito ergo sum"です。

 ラテン語では、動詞の変化が多様です。

 主語がなくても誰が動作をしているかがわかるほどです。

 ですから、たいていは主語が省略されます。

 この"cogito"というのが、「私は考える」です。

 "cogitare"「考える」というラテン語の動詞の一人称単数現在形です。

 認識は英語で、"recognition"です。認知は"cognition"です。

 なんか似ているでしょ。

 そうです。両者とも、もとはラテン語の"cogitare"から派生しています。

 でも、recognitionには、"re-"がついています。

Websterの辞典では、

recognition (L. recognitio)
1. acknowledge validity, genuineness, existence of, etc.
2. knowing again, identifying as known before.

適当に翻訳すると、

認識
1. 正当さ、真理、存在について知ること
2. 以前知っていたことを、再び知ること
と、解説されています。

それじゃあ認知はというと、

cognition (L. cognitio)
action or faculty of knowing, perceiving, conceiving, as opposed to emotion and volition; a perception, sensation, notion or intuition.

認知
感情や思考の対立語として、知ったり、感じたりすること。感受性、感覚、直感