両親の死後、農場の経営はライヒの手にゆだねられることとなりました。
しかし、そのとき第一次世界大戦が始まりました。
翌年、1915年にはロシア軍がオーストリアに侵攻し、ライヒの農場は破壊されました。
そのとき、ライヒはオーストリア軍に入隊し、宣戦布告してきたイタリアとの前線で3年間戦いました。
このとき、人間を機械のように扱う戦争を体験しました。
1918年の終戦により、オーストリアは負けます。
オーストリア・ハンガリー二重帝国が崩壊しました。
除隊したライヒは、家庭教師をして生計を立てながら、ウィーン大学の医学部に進学しました。
戦争に参加していましたから、6年の修学年限を4年間に短縮することを許されていました。
この当時、すでにライヒは性科学のセミナーを作っています。
すぐにフロイトの精神分析に興味を持ちました。
ライヒはぬきんでて優秀な医学生でした。
1920年、医学部2年生、23歳でウィーン精神分析学会の会員と認められました。
フロイトが作ったウィーン精神分析ポリクリニックで、医学部の在学中から臨床助手として働きはじめ、後には副所長になりました。
1922年、医学部を卒業しました。
この年に、最初の結婚をし、娘2人を得ました。
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