リビドーとキリスト教

 フロイトは自分のやったことが効果を上げたという現実が、精神分析理論の正しさを証明していると言います。

 でも、性欲がリビドーという心のエネルギーであるとしなくても、同じことを説明できるかもしれません。


 歴史的に見ると、フロイトの活躍した時代のドイツ、オーストリアは、第一次世界大戦を経験し第二次世界大戦に向かう時代でした。

 社会の個人に対する抑圧は大変強かったのです。

 もちろん、人権などという意識はありません。

 皇帝のために戦争に行き死ぬことが、当然の世の中でした。

 そして、その社会の中で、キリスト教社会が道徳を押しつけました。

 「神の御許(みもと)に行くためには、・・・しなさい。・・・してはならない」と厳しく教えられていました。

 死んだあとの生活のために、生きている「今」を制限されていたのです。

 リビドーが、何であれ、キリスト教の道徳が生活を締め付けて息苦しいものにしていました。

 日本をはじめ、非キリスト教国の昔からの宗教と比較するとキリスト教は性に対して禁忌とするものが、とても多いことに気づきます。

 それが現代の道徳にも影響しているのですが・・・。

 多くの人が内心ではキリスト教の押しつけた道徳、性を含めた禁忌に反発していました。

 そこに、フロイトが常識破りのことを言いました。

 ですから、その常識破りで、自分を抑えつける心から解放された人々が多かったのでしょう。

 そのように、解放されていく人を見て、フロイトは自分のリビドーが性欲であるという仮説が事実であると主張しました。



 仮説が現実を説明するからといって、事実であるとは言えません。

 フロイトの言うリビドーはエスの中にあって、意識の及ぶところではありません。

 ですから、性欲であると意識することも、断定することもできないのです。

 フロイトに精神分析を学んでいたマズローが、欲求を5段階にして説明したのは、リビドーが性欲だけである必要がないことを示しています。

 もちろん、マズローの欲求5段階説も仮説の域を出ません。

 リビドーが実在することは誰も明言できません。

 「このように考えるとわかりやすい」という解釈の方法でしかないのです。



 人間は自分の体験から学習します。 

 そして、学習をして習慣という個人の文化を作ります。

 文化は価値観を生み、解釈を生み出します。

 「分析」はアリストテレスの時から、科学的手法と見なされました。

 しかし、「分析」には必ず「解釈」がついて回るという点で、主観から抜け出せません。

 フロイトの「分析」も、フロイトの文化から逃れられません。

 フロイトは、時代に逆らっていましたが、結局、自分の育った文化や自分の作った文化から抜け出ていません。

 発達の第3段階に「男根期」という名前を付けたことで、フロイトの男尊女卑思想がわかるでしょう。

 精神分析入門の中でも、自分が男であり、女性のことはわからないのだということを、書いてはいます。

 わからないのに、すべてを男中心に解釈したことが、フロイトの精神分析の欠点として見えます。



 フロイトの精神分析は、20世紀初頭のドイツ、オーストリアをはじめとするヨーロッパ、アメリカのキリスト教国の人の心の理解には役立ちました。

 しかし、現在の私たちの心の理解には、そのままでは使えないかもしれません。

 わたしが中学生の頃の教師は、大学でリビドー理論を習って卒業して来ていました。

 ですから、「若いエネルギーをスポーツで昇華させる」などという表現が聞かれました。

 そのときは、理解できなかった言葉ですが、同じことを今、耳にしたら、「ばかばかしい」と思います。


 ここで書いている「キリスト教」と「キリストの教え」は違うものです。

 キリスト教がヨーロッパ文化に与えた影響については、ウィルヘルムライヒの性格分析と、実存主義のニーチェのところに書きたいと思います(まだ書いていないけど)。

pre next