フロイドの科学

 フロイトの精神分析については、「結局、フロイトが自分の心を探り(内観して)、考えたストーリーでしかない」と非難する人がいます。

 発表当時から、「客観性に欠けるので、科学でない」と言われました。

 そのため、フロイトは「精神分析入門」の中で、「精神分析は科学である」と繰り返し書いています。

 フロイトが精神分析が科学であると主張する理由は、以下のようなものです。
 
 多くのクライエントを、精神分析の理論により、治療し効果を上げてきた。

 効果が上がったということが、理論の妥当性を証明している。


 しかし、この主張は、多くのインチキ治療の主張と変わりません。


 フロイトの業績は立派なものです。

 無意識という心の状態にライトを当て、多くの人がその存在を認めるまでになりました。

 しかし、正当性を「治療効果」という結果で主張することが、その「科学性」を損なっています。

 「科学とはなにか」のページを読んでいただくと、わかるかもしれません。


 ある理論に従って、あなたが行った実験結果と、わたしが行った実験結果が同じになれば、その理論は科学的だと言われます。

 つまり、科学的であるためには、「再現性がある」ことです。

 そして、あなたがやっても私がやっても同じということを客観性と呼び、科学には客観性があるといいます。

 しかし、精神分析は、分析する人間と分析される人間の資質が大きく影響します。

 2人のクライアントがいれば、その抱えている問題も、性格も違うので、客観性はありません。

 また、同じ人に2人の人が分析をすれば、2人目には必ず1人目の分析医の結果が影響します。

 というわけで従来の考え方では、客観性も再現性も得られません。


 ここで、ちょっと見方を変えてみます。

 フロイトは自分のクライエントに長くつきあっています。

 治療に10年以上かかるクライエントもいると言います。
 
 たとえば何かに対する不安を訴えるクライエントがいたとしましょう。

 その人は、いったん症状が無くなったとします。

 そして、再発してきたとき、フロイトは前回の治療経過を鑑みて、仮説を立てます。

 「また、・・・に固着しているかもしれない」

 仮説に従って、治療を始めます。

 そして、仮説が当たっていれば、クライエントは快方に向かいます。

 仮説が当たっていなければ、そのクライエントに対する仮説を修正します。

 そして、その仮説にしたがって、治療を組み立て実践します。

 このようにして、そのクライエント一人に対して、仮説、実践、修正、実践が繰り返されます。

 そのクライエント専用の仮説は、他の人に対して再現性はないかもしれません。

 しかし、そのクライエントという世界では、その仮説は実践と修正の繰り返しで、科学になっていきます。

 従来の科学が、「同じ時間の違う個体での再現性」を考えていたのに対して、「同じ個体の違う時間での再現性」を考えることができるかもしれません。

 そのような症例をたくさん経験すると、自分の中で仮説、実践、修正、実践が繰り返され、自分自身の科学になるかもしれません。

 従来の科学が、「違う分析医の同じ症例への再現性」を考えていたのに対して、「同じ分析医の違う症例への再現性」を考えることができるかもしれません。

 フロイトはそのような経験から精神分析を科学であると訴えたと思います。


 精神分析は統計学で数値化するような種類の科学ではありません。

 もし、あなたが「数値化や文字で表現することができず、他人に伝えられないのなら、科学ではない」と主張するのなら、精神分析は科学ではありません。

 精神科の医療も科学ではありません。

 精神科に限らず、技術を必要とする医療はすべて科学ではなくなります。

 看護や介助はもちろん科学になりません。

 臨床心理学も科学ではありません。

 経済学も経営学も科学ではないかもしれません。

 厳密な客観性と再現性を持っていて科学であると主張できるのは、数学だけになるでしょう。

 


 生きていく上で、大切なことは、「科学である」という言葉ではありません。

 「科学」という言葉にとらわれていた点で、フロイトは自分の業績をしっかりと把握していなかったのかもしれません(うっ、偉そう)。

 工学的な実験による再現性で裏付けられることだけが、大切なのではありません。

 人の心は工学的手法ではかられるものではないかもしれないのです。

 感じられること、それを支えにして生きていけることをつかむことが大切です。

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