「自己実現」の定義の修正3

日本語にするということ

  翻訳は大変難しいです。現実的には不可能です。言語は文化を切り出したものです。

 英語は英語文化という背景があるから意味が伝わります。

 英語文化とまったく異なる日本語文化を背景には伝えられないものが存在します。

 ですから、「本当に知りたければ、原著を読め」といわれます。

 乏しい英語知識でも自分の英語です。

 ほかの人の日本語にしたものは、なまじ日本語であるだけに誤解します。


 自己実現という言葉は、英語の self-actualization の訳です。

 actualization とは、「現実にすること、実体化すること」と訳されます。

 しかし、もうひとつ、「実存化」という意味があります。

 実存はドイツ語の Dasein の訳です。

 Daseinは、Da と sein から作られた言葉です。

 Da sein とは「そこに在る」ということです。

 実存主義の言葉です。

 そこにあるものをあるがままに認めることが重要であり、観念=言葉に惑わされないことを説きます。

 マズローの「完全なる人間」の原題は"Toward Psychology of Being"です。

 この"Being"も同様です。

 クライエント中心療法のロジャース、ゲシュタルト療法のパールズ、論理情動療法のエリスは、等しく"Here and Now" 「今、ここで」存在することに気づくことの大切を説きます。

 3人はマズローとともに第3勢力の人間性心理学を作りました。

 センサリー・アウェアネスのシャーロット・セルバーは口癖のように、"Being all there"「そこにあるものすべて」を感じることを伝えました。

 上に述べたことを頭に入れてから、「自己実現の再定義」を見直してみましょう。


 自己実現とは、その人の能力が非常に効率よく発揮され、うまく楽しむことができ、その人の存在が全体としてひとつになり、内部の相克がなく、自分の体験していることを素直に感じ、個性的で、表現力豊かで、自然で、機能的で、創造的でユーモアがあり、自我を超え、低次の欲求に左右されることがないことです。

 このような状態にあれば、その人はより自分らしくなり、自分の持っている能力をより多く発揮できるようになり、「今ここにいる人」としての自分そのものに近づくことができます。完全な人間に近づきます。


 人間にとって、究極のレベルが無数にあるはずはありません。

 いろいろなセミナーや「教え」でいろいろな言葉で示されるものは、ひとつの状態をそれぞれの言葉で表現したと見るほうが自然です。

 道は違えど、ゴールは同じようなところでしょう。

 マズローは自分が「自己実現した人」と思った人を観察して「自己実現」という状態を見ました。

 「自分のやりたいことをやりたいようにやった人」達です。

 「やりたいことをやりたいようにできる」状態をあやふやな定義で「自己実現」と表現しました。

 そして、「自己実現した人はそうしたいという『動機』があったはずだ」と考えました。

 その「動機」を「自己実現の欲求」と名付けました。

 しかし、「動機があったはず」ということと、「動機がある」はまったく別のことです。

 基本的欲求についての表現が、現在形と未来形willで書かれているのに、自己実現の欲求については、mayやmustで書かれているのは指摘したとうりです。マズローは「・・・であるはず」と思っていたのです。

 マズローは「欠乏欲求」が人間の行動の動機であると考えました。

 動機理論を作り、その動機に「欲求」を置きました。

 基本的欲求を定義し、その欠乏を満たす欲求を動機としました。

 人間は基本的欲求が満たされても、何らかの行動をします。このような行動の「動機」を説明するために別の種類の欲求を考えました。

 それが「自己実現の欲求」です。

 しかし、これは「人間は基本的欲求がみたされても、なお行動をする」ということについて、「人間は動機があるから行動する」という仮説を満たすために「自己実現の欲求」という「言葉」を当てているだけです。

 「人間は基本的欲求が満たされても、やりたいことをやる」という事実を、そのままに、あるがままに認めてしまえば、「自己実現の欲求」の必要はありませんし、存在もしません。

 人間の中には「自己実現」する人がいます。

 自己実現しない人もします。

 自己実現したと見られる人でも、「自己実現しよう」と願って行動するわけではありません。

 本人には意味のない言葉です。

 「私は自己実現した」と言い切れる人はいません。

 マズローも「100%の自己実現をする人はいない。程度、頻度の問題だ」と言います。

 「自己実現の欲求」という言葉は、自分ではなくマズローが観察してつけているものです。

 誰かを評価しようとする「意図」がなければ、「自己実現の欲求」という言葉は必要ありません。

 マズローは、「人間は善に向かう」と信じていました。

 また、「人間性心理学」の序に、「この本は人間性についての違った哲学、人間の新しいイメージを描き出していた」と書いているとうり、人生についての考え方を提示したものです。

 けっして、「人間は自己実現に向かわなければならない」というのではありません。

 わたしはマズローの「人間性心理学」という哲学を否定はしません。

 ただ、「自己実現の欲求」という言葉の誤った使い方には気をつけたいと思います。

 「科学」に対するマズローの警告には賛成です。

 そのうち、書きます。

 マズローはほかにもいいことを言っています。

 『がんばらないことの教育』も参考にしてください。

さあさんの意見

 「自己実現」とは、何かになるのではありません。「自分がそうであること」に気づくことです。

 言葉に惑わされて、「自己実現のためにがんばる」などというのは、目標から遠ざかることです。 

 「自己実現の欲求」はありません

 人間には自分という存在に「気づく人」と「気づかない人」がいます。

 「気づいた人」、「自己実現した人」が「気づき」、「自己実現」の意味を知ります。「気づき」や「自己実現」という言葉の「意味」を体験していない人が、意識下でもそれを求めることはありません。

 「自己実現」という結果はありますが、「自己実現の欲求」という「動機」はありません

 「自己実現という言葉」の意味を体験しようとする欲求はあるかもしれません。

 それは「自己実現の欲求」ではなく、「知的欲求」です。

 マズローが修正した定義のような「自己実現」をした人は、自分の人生で行なってきたことの結果として「自己実現」したのです。

 「自己実現しよう」と願って生きた人ではありません。

 実際の世界を見ると、「自己実現を目指して生きている人」は、「自己実現の欲求」を「動機」としてたたきこまれた人だけです。
 

 あなたは「自己実現」を体験したことがありますか?

 もし、体験したことがあるなら、それは「追い求めるもの」ですか?

 もし、体験していないなら、「自己実現」の達成を求められることは、苦しくないですか?

 「自己実現の欲求」という動機に動かされるのではなく、「やりたいことを、やりたいように、やれることが幸せ"I'm happy when I can do how and what I want to do "」という性質(自律性)があるだけではないでしょうか?


 私の意見も、まんざら、嘘でもなさそうでしょ。
次のページではマズローをちょっと弁護します。