マズローは<「頭の良い善人」だったとおもいます。
人間は必ず良い方向に向かうはずだと思っていたようです。
ですから、「人間性」を重視し、「人間性心理学」を書きました。
マズローは
「人間は機械ではない。
決まりきったことをやることは人間ではない。
人間は一人一人ユニークで、いつでも新しい存在になっている。
だから、そのときそのときにお互いの反応を確かめ合いながら、生きていくことが大切だ。
それは、一瞬を目覚めて生きていくことだ」
と考えます。
この考え方は、コージブスキーの教えた「一般意味論」の考え方ですし、ウィナーのサイバネティクスの考え方です。
さらに、センサリー・アウエアネス、フェルデンクライス・メソッド、アレクサンダー・テクニーク、禅に共通する考え方です。
マズローと同じく、ヒューマニスティック心理学であるパールズのゲシュタルト療法、アルバート・エリスの論理情動療法でも、同じことが指導されます。
マズローは著書の中で、はっきりと一般意味論を支持しています。
「人間性心理学 Motivation and Personality」の第13章は思考と言語とステレオタイプについて書かれています。
一般意味論を参照し、一般意味論で説かれることと同じことが書かれています。
ですから、「自己実現」は上に上げた人々が「感じていた」ものと同じと思われます。
しかし、不思議なことにマズローは自らの体験としては書いていないのです。
その理由は、心理学の歴史にあるのかもしれません。
心理学は哲学の中にあった認識論から分離してきました。
ですから、はじめは自分の心の中を見つめて記述するものでした。
「内観」と呼ばれます。自分の内部を観察して、「心」を知ろうとしたのです。
しかし、「内観」でわかるのは、「自分の心」です。
「ほかの人の心」はわかりません。
それで、実験心理学と精神分析学ができました。
実験心理学は動物の心を行動から観察する動物心理学を作りました。
また、「心」の存在を問わず、「行動」の変化だけを追う「行動心理学」が出てきました。
実験心理学は当初、成果が上がりました。しかし、特殊な実験環境か動物相手であるという制約が大きすぎました。
結局、「ほかの人の心」はわかりません。
精神分析学は、精神疾患を持った人、または調子の悪くなった人が対象でした。
普通の人に当てはめることは普通の人を病気にすることになります。
そこで「普通の人の心」を知りたくて、「人間性心理学」ができました。
もし、マズローが「自分の感じたこと」を書き、それを証拠とするなら、古き心理学の「内観」に戻ることになります。
科学性を主張できなくなります。
そのためにマズローは「自己実現した人々」をサンプルとすることで、客観性を持たせたのです。
そして、サンプルは自分より自己実現していると思われる人を選びました。
ですから、自分の体験として書くわけにはいきません。
自分より上のレベルの人間を観察した結果のはずだからです。
以上のように考えると、マズローは善人だったと感じます。
マズローは「ずる」をできなかったのです。
というわけで、マズローは自己実現を説明するとき、あいまいさを残さざるをえません。
自分で体験していないことになっているからです。
「人間性心理学 Motivation and Personality」の第14章357ページには、
「欠乏動機と成長動機の違いは、もし動機付けということが新しい意味で理解されるのでなければ、自己実現そのものは動機付けによって生じた変化ではないということを意味する。
自己実現、それは有機体に潜在する可能性を最大限に発揮し実現することであるが、それは報酬を通じての習慣形成とか、連合などというよりも,成長とか成熟により近い意味をもつ」
と書いています。
これは、
「普通の人の話す言葉では、自己実現は動機で起こるのではなく、自然に起きるのだ」
といっているのです(「連合」というのは「刺激と反応の連合を作ることが学習である」という考え方。連合学習説のことです)。
マズローの「動機づけ」はという言葉は、普通の社会で使われる意味ではありません。
普通は「性質」とか「本性」と呼んでいるものです。
自己実現した人は、いわゆる自由人です。
マズローは自由になりたかったけど、なれなかったんでしょう。
そして、善人だったので、何とか自由人になりたいと思い、「自己実現の欲求」を考え出したのかもしれません。
でも、そんな「欲求」を考え出さなくとも、「自由」になれます。
自分が自分を抑制していることに「気づけば」良いのです。
そういう点では、ゲシュタルト療法のパールズや、論理情動療法のエリスの方が「感じていた」と思います。
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