
「あの人は私のことが嫌いなのよ」
映画で良く聞くセリフです。「嫌い」と言っているのは誰でしょうか?
「あの人」がそのシーンで直接話しているのではありません。
もし、「あの人」本人が話しているのなら、「私は嫌いだ」と言うでしょう。
あなたが話しているのでもありません。
「嫌いだ」と話しているのは、スクリーンにいる話し手です。
その人は、「あの人」の心を、そのままに読めるわけではありません。
そんな人間は歴史の中にもいないのです。
つまり、上のセリフを正確に言うと、「あの人が私を嫌いだと思っていると、私は思っている」です。
この「嫌いだ」は、「あの人」という環境の考えではなく、自分の考えなのです。
自分の領域を越えて、環境に食い込んだところに、自分と環境の境界を引いています。
本来なら自分の領域で回るべき赤い歯車が自分の外の環境に出て行きます。
本来回る場所ではないところで歯車が回りますから、当たり前ではない軋轢を生みます。
これはとても苦しい。
しかし、自分の境界が環境に食い込んでいることに気づかず、本人は環境が自分に食い込んでいると感じます。
本人が引いた境界から見ると、青い歯車は「見かけの自分」の中に食い込んでいるように見えるからです。
投射している人は、「あの人が・・・と言う」、「世間の人は・・・と言う」、「普通は・・・だ」という表現を好みます。
ですから、「教えてくれなければできません!(本当は自分が学習していない)」とか、「そんなことしたら、私が近所から叱られるんだから(本当は自分が見栄を張っている)」と言う人は、自分と環境の境界を実際よりも環境側に引いているのです。
自分の中のものを外側の世界に投射しているのです。
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