私は今、北海道の士別にいます。東京に行くことができます。目を閉じて、何をするかを思ってみます。
車まで歩いていき、ドアを開け運転席に座り、キーを差し込み、車を運転し、高速道路に乗り、旭川市に行き、市内をとおり、空港に行き、駐車場に止めます。
空港ビルに歩いていき、カードを出し、自動発券機で前方通路側の搭乗チケットを購入し、搭乗ゲートから待合室に入り、飲み物を買い、漫画を買って読みながら、出発を待ちます。
出発のアナウンスが入り、他の客が乗り込んでから、椅子から立ち上がり、ゆっくりと歩いていきます。
それでもブリッジには多くの搭乗客が並んでいます。
飛行機に乗るとすぐに自分の席に座れます。鞄から本を出します。
飛行機が飛んだら、本を読んだり、お茶を飲んだり、時にはコンピュータで原稿を書きます。
着陸のアナウンスが入ると、テーブルを元に戻します。
飛行機が着陸したら、席を立ち、ブリッジに歩いていきます。
その後、空港のコーヒースタンドでコーヒーを飲みながら、周りを見回します。
このようにして、ここから東京に着くまでを「思う」ことができます。
では、実際に体を動かして、東京に行き、空港のコーヒースタンドでコーヒーを飲みながら、周りを見回してみます。
このとき、士別を出発し東京まで来る行動は、思ったときと、体を動かしたときと、同じことをしています。
違いは「エネルギーの消費量」です。
パールズは、「精神的活動と、身体的活動の質的な違いは、エネルギーの消費量である」と考えました。
人間は、行動をイメージすることができます。
これは少ないエネルギーでできます。
このようにして、予行練習をしてから、体を動かすと効率よく行動できます。
このようにイメージ化するということは、シンボル=記号=言葉を使うことです。
一般意味論と内言論を思い出してください。実際に起こっていることから、一般化、抽象化することで、言葉ができます。
その言葉が、思考に使われることで、考えることができます。行動が思考に作用し、思考が行動に作用します。この2つは不可分です
思考することと、身体的に行動することは、エネルギー消費が違うという質的な違いはありますが、人間という「全体」の中にあります。
ですから、精神と身体は不可分です。
パールズは、人間の精神活動に伴って、行動が出ると考えました。
この行動は意識して出るものと、意識下で自動的に出ているものがあります。
意識しないで自動的に出る行動は、習慣化した行動です。
「習慣化した行動」では、自らの精神は何かを表現しているのですが、クライエント自らはその意味を理解していません。
パールズは、ときどきクライエントに「今、何をしているのかな?」と尋ねます。
クライエントは自分が脚を組んだり、唇をかんだりすることに気づいていません。
パールズは、クライエントが行なっている行動が何を意味しているかは知りません。
単純に問うているだけです。しかし、クライエントは知っています。
それは意識の下で行なわれていることですが、知っているのです。
しかし、認めたくないので意識の下に押し込めています。
そこにパールズは焦点を当てます。
クライエントは、自分が予測していなかったことを指摘され、感情的な反発を覚えるかもしれません。
自分の知らない自分を見透かされていると感じるからかもしれません。
しかし、そのような抵抗は、気づくきっかけになるものです。
パールズは容赦なく指摘し、何をしているのかを問います。
そうして、ラッキーなクライエントは自分を抑制している自分自身の心に気づくかもしれません。
このようにして、パールズは、身体と精神は一つのものであり、精神の活動が行動に作用すること、そしてその行動の変化に気づくことがセラピストの役目であると考えました。
セラピストは、クライエントが失っているフィードバックを代行してあげるだけです。
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