Valid HTML 4.01! ホメオスターシス

 システム理論のところで、システムは自己保存機能があると書きました。

 パールズは生物も同じだと考えました。

 生物の状態を常にある範囲内におさめるという働き=ホメオスターシスがあると言います。

 ホメオスターシスがうまく働いていると、生物の状態はある範囲内いったり来たりしています。

 このホメオスターシスがうまく働かなくなると、一方の状態に偏ってしまいます。

 これが生物の病気です。

 両足で立ってください。

 目を閉じると、体が前後左右に小さく動いていることがわかるでしょう。

 立っていると、外側からは「止まっている」ように見えます。

 しかし、呼吸による動きがあります。

 体全体が呼応して動くので、胸郭や横隔膜が楽に動けます。

 呼吸に合わせた小さな動きにより体のバランスが変化します。

 その変化に合わせて、体は前後左右に小さくうごきます。

 右に小さく傾くと、その変化によって、左に戻す動きが出てきます。

 ネガティブ・フィードバックです。左に戻って行きます。

 このときはポジティブ・フィードバックです。

 中立の状態を越えると、左に傾きます。

 また、ネガティブ・フィードバックが働き、中立に戻っていきます。

 体内のホルモンバランスや自律神経系の緊張も同様です。

 さらに、神経系と内分泌系のバランスも同様です。

 このように生物はホメオスターシスで、ある範囲内の変化を続けながら、安定していることが「健康」です。

 電車に乗っていても、転ばないのは床の変化に対して、体を変化させて、バランスを保っているからです。

 これは電車という「環境」と自分の体の関係にホメオスターシスがあるからです。電車という環境に適応できることが、人と環境のホメオスターシスです。

 もし、体が傾いたときに左に戻る機能だけが高まったとしましょう。

 すると、右に傾けば、どんどん左に戻され倒れてしまいます。

 このようなホメオスターシスのうまく働かない状態が病気です。

 人間の心にも同様のホメオスターシスがあります。

 心に刺激が来れば、心に変化が出ます。この「心の変化」に対して人間は反応します。この反応により、心はまた平穏な状態に戻ります。


 しかし、「心の変化」に対して、過大な反応や過小な反応をすると、心の病気になります。ホメオスターシスがうまく働いていません。

 ホメオスターシスがうまく働かないのは、「今、ここ」で起こっていることを「あるがまま」で見ていないためかもしれません。

 ですから、「今、ここ」を「あるがまま」に見るように、セラピストが刺激を与えてあげれば、心に病気を持った人は、自らのホメオスターシスで戻っていくかもしれません。

 セラピーの目的は、クライエントの過去をほじくり出して、すぎたことを思い出させて、自分以外のものに原因を負わせることではありません。

 「今、ここ」に焦点を当てることに気づかせることです。

 セラピーの目的は、未だ来ない未来に対して身構えさせることではありません。

 「今、ここ」で対処できるものに焦点を当てることに気づかせることです。

 「気づき」さえすれば、クライエントは自分のいつもの安定した状態にもどっていくのです。ホメオスターシスがあります。

 身体であれ、精神であれ、ホメオスターシスを維持するために必要なことが、人間の「欲求」です。

コラム 「癒し」と「癒え」


 生物が癒えることを、「生物にはホメオスターシスがある」と表現します。

 決して、ホメオスターシスがあるから癒えるのではなく、癒えることをホメオスターシスと呼ぶのです。

 「癒える」ことは、生物の持っている特性です。

 何かがその能力を与えるものではありません。

 生物が傷ついたとき、「癒える」特性を発揮するには、材料とエネルギーが必要です。

 動物の場合、癒えるための主たる材料はタンパク質です。

 エネルギーはたいていは化学エネルギーの形で入ります。

 糖質や脂肪です。

 植物なら、物理エネルギーの光も使えます。

 これらの材料とエネルギーに「癒える」という特性が加わって、傷ついた生物は元に戻って行きます。

 材料とエネルギーを与えただけでは癒えません。

 「癒える」ときには、そういう特性があるのです。

 心も同じように癒えます。

 しかし、体の傷よりも材料やエネルギーはずっと少なくてすみます。


 社会では「癒しのケア」、「癒しのミュージック」、「癒し系の女優」という言葉が使われます。

 「癒し」という言葉があるために、「癒し」というものがあると思われています。

 「癒しのスポット」に行き、「あーっ、癒された」と言う人がいます。確かに「癒えた」のでしょう。

 しかし、「癒された」のではありません。

 「癒える」きっかけとなる刺激は受けたでしょうが、「癒える」特性は自分の中にあったのです。

 「癒し」の場でカツ丼やステーキを食べたのでもなければ、たぶん「癒え」に必要な材料もエネルギーも自分の中にあったものでしょう。

 「癒された」と思いこんでいる人は、「癒える」ために、また同じところで同じセラピーを受けなければなりません。

 「そこに行けば楽になる」ということは、一次学習です。

 しかし、「癒えた」と理解する人は、そこで受けた刺激を自分の中で再現すればよいのです。

 「自分で癒えることができる」という体験は二次学習になります。



 もし、「癒された」と感じたときがあったなら、そのときに「感じていたこと」を詳細に思い出してください。

 思い出すだけでも、「癒された」と感じるかもしれません。

 もし、そのように感じたら、ちょっと考えてください。

 そのとき、自分は癒されたのでしょうか、

 癒えたのでしょうか?

 そのときの材料やエネルギーは、自分の外から来たのでしょうか、自分が今持っているものだったのでしょうか?

 「癒し」という言葉があることが、「癒し」の証明にはなりません。

 「癒し」は「癒える環境」を提供しただけです。

 生物は自分自身で癒えていきます。


 ここまで読んでも、まだ「だって、ナースの仕事は患っている人の傍らに行って癒すことなのよ」と言う人もいるでしょう。

 そこで、最後に昔の人の書いた言葉をあげておきます


 内科的治療も外科的治療も障害物を取り除く以外に何もできない。

 どちらも病気を癒すことはできない。 癒すのは自然のみである。(-看護覚え書き- 1860 ナイチンゲール)


 Je le pensay, et Dieu leguarit. 私が手当てし、神が癒した。


(16世紀の外科医 アンブロワーズ・パレ)



 人が人を「癒す」ことはできません。人は、人が「癒える」のを手伝うことができます。


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