前のページに共通することは、その国の宗教、社会制度、経済や政治の状況によって、「教育」が違うということです。
「学習」は自発的に起こります。
「生きているシステム」は環境と自分のインタラクションから学習します。
環境は「生きているシステム」を含むメタシステムですから、構成要素の「生きているシステム」が環境の存在に寄与するようにコントロールします。
「学習」は自発的に起こりますから、環境がその「学習」をコントロールしようとすれば、インタラクションで調節しなければなりません。
これが「教育」です。
人間で言うと、社会の存続のために個人の学習をコントロールすることです。
これは、一方では個人の生命、生活を安定させる方向に向かいます。
しかし、もう一方では、社会のために都合の良いように個人に行動を「強制」してきます。
社会自体が「生きているシステム」として存続できるように、個人にある種の行動を「強制」してきます。
あるときは明文化し、ある時は慣習として強制します。
これが、法律や文化です。
社会の「教育」は、「文化」という名前の社会の「習慣的行動」を「学習」するように方向付けることです。
国、地域、集落、会社、組織、親族、家族というそれぞれの社会の中のインタラクションは、それぞれの文化なのです。
その文化に従うことがシステムの要素として、うまく機能していることになります。
要素としてうまく機能するように、個人に対して社会が行うインタラクションが「教育」です。
ですから、国によって、また社会制度の変更により教育が異なるのです。
個人の習慣が集まって集落の文化を作ります。
集落の文化が集まって、民族の文化を作ります。
この文化がその民族の教育を作ります。
その教育が民族・集落の文化を作ります。
その文化が個人の習慣に影響しています。
このようにして、習慣、文化、教育は三つどもえとなって変化します。
このプロセスの進行には、長い時間がかかります。
たぶん、「良い教育」というものは存在しません。架空の存在です。
習慣、文化とともにあるものですし、歴史とともに変化します。
常に動いているものです。
今、あなたが習慣的行動に気づくことが、将来の日本の文化を変える原動力になるかもしれません。
あなたが、伝統文化継承者でないことを祈ります。
コラム |
キネステティクは根源的に「禅」と共通するものを持っています。
「禅」では、人間をただ存在するものとして認め、その「存在」を知ることを求めます。
キネステティクでは、人間が今、そこにある存在として認め、その人とのそのときのインタラクションをあるがままに感じ、動きます。
両者とも「呼吸」を重視します。知れば知るほど似ています。
私はフランク・ハッチに「禅について学習したことはないか」と、聞きました。
「知らない。研究したことない」と答えられました。
翌年会ったときに、たまらずもう一度聞きました。
「ユウジ、それはこの前にも聞かれたことだよ」と「こいつ、呆けたかな」と怪訝な顔をしていました。
キネステティクは日本の古来の文化、禅とよく似ていますから、日本の文化・社会では本来、普及しやすいはずです。
しかし、現代の日本は、その「文化」自体が変容しているようです。
多くの人が「自分」という存在を無視して、行動しています。
たぶん、これからキネステティクは介助・看護を中心に普及・教育されるでしょう。
しかし、その歩みはゆっくりでしょう。
なぜなら、普及につれて、医療を包む日本の文化が変化していき、その変化が教育をつくって行くでしょうから、時間がかかります。
まず、個人が習慣を変えて、自分の体の動きに「気づくこと」が必要です。
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