健康について考える

 サイバネティクス・システムと健康

 サイバネティクス・システムでは、システムの要素がインタラクションしながら、システム全体の機能を円滑に進められるようにできています。

 全体が円滑に活動できるようになっているときに、サイバネティクス・システムと見ているといっても良いです。

 サイバネティクス・システムでは、要素の不具合が直接システム全体の不具合にはなりません。

 要素Aが不調でも、要素Bがその代わりに働けば、システム全体は円滑に活動できます。

 このように一部の不具合を全体で代償し、全体として円滑に活動できているとき、そのシステムは「健康」です。

 会社の課長が風邪で休んでも、課長補佐がその仕事を代行できれば、会社の仕事は円滑に進んでいきます。

 このとき、会社は「健康」です。

 しかし、課長が不正をして、会社のお金を盗んだとしましょう。

 このとき、課長という要素は存在しますが、会社全体とのインタラクションがうまくいっていません。

 このとき、会社の健康は悪くなっています。

 つまり、要素の過不足が健康の指標ではなく、インタラクションの円滑さが健康の指標です。

 
 キネステティクの健康から・・・

 「キネステティクス 健康増進と人の動き」という本を翻訳したときに、題名で困りました。

 原題は Kinaesthetik - Gesundheitsentwicklung und menscheliche Aktivitaeten です。

 そのまま翻訳すると、「キネステティク 健康増進と人の活動」です。

 「健康が増進する」という表現は、この本を翻訳しているとき、つまり2003年当時は、一般的でありませんでした。

 2006年の今でも一般的ではありません。

 たいていは、「健康を維持する」とか、「健康をなくす」といいます。

 まるで、「健康」という「もの」があるかのように、「健康をとりもどす」、「健康になる」とも表現されます。

 反対側には、「病気」があり、人は「健康か、さもなくば病気だ」と考えています。

 でも、キネステティクは行動サイバネティクスから派生してきましたから、健康を状態の表現と考えています。

 システムの中の状態を「健康」と呼んでいます。

 ですから、「健康が思わしくなくなった」とか「健康が増進した」と言えるのです。

 サイバネティクス用語を前面に出すと、「人としてのシステムがより円滑に働くようになった」とか、「人としてのシステムの活動が落ちてきている」ということです。

 このように考えると、健康に対立する「病気」という概念はなくなります。

 「病気」というのは、システムの要素が喪失したり、機能が一部欠損したときの状態に「名付けている」だけです。

 糖尿病というのは、膵臓がインシュリンを十分に出していない状態につけた名前です。

 かつて、糖尿病は大変な病気でした。

 でも、今では、食事のカロリーを計算し、適度な運動をして、足りなければ、薬を飲んだり、インシュリンを注射することで、日常生活を送れます。

 インシュリン注射して仕事ができるならば、その人と周りの社会で作るサイバネティクス・システムは「健康」です。

 同じことは、すべての「病気」について言えます。

 宇宙学者として名高いホーキンスは車いすに乗っていて、歩くことはできません。

 言葉もはっきり話せません。

 しかし、周囲の協力で自分のやりたいことをしています。

 ホーキンスの周りの社会は、ホーキンスがいることでうまく動いています。

 ホーキンスと彼を包む社会で作るシステムは健康です。

 このように考えると、病気は健康の一部に、人間の都合で「名前」をつけただけとわかります。


 フロイトの精神分析入門から

 「精神分析入門」の中で、フロイトは神経症とと神経質な人の違いについて書いています。

 この2つの違いをおわかりですか?

 みなさんは、何かをとても気にする人を「神経質な人」といいます。

 フロイトが精神分析を行った患者さんの中には、とても神経質で神経症(ノイローゼ)という病気の人がいました。

 フロイトは「神経質と神経症」の違いを以下のようにいいます。


 ドアに鍵をかけたかどうかを心配して何度もドアのところに戻って来て確認するのは、神経質な人だ。

 自分の時間をとられてしまうだろう。

 ドアに鍵をかけたか心配で、すぐ帰ってきてしまい、仕事をできなくなったとき、仕事に差し障りができたときは神経症である。

 神経質と神経症の間に質的な違いはない。

 周りの社会が迷惑を被るかどうかだ。

 フロイトは1900年代初めに活躍していました。

 サイバネティクスなんか出てこない時代に死んでいます。

 それでも、病気に対する考え方は、サイバネティクス的です。

 個人という要素の中に不具合があっても、病気ではない。

 個人と周囲の社会でつくるシステムの中に不具合が出てくると、病気だというのです。

 要素とほかの要素のインタラクションの不具合が全体に及ぶことを、人々は「病気と名付けている」のです。

 ですから、個人の状態だけをいくら詳しく調べても病気は出てきません。

 社会がある個人のインタラクションを「病気だ」と名付けたときに、「病気」と呼ばれます。


 最近、重症の統合失調症が減ってきたこと

 先日、精神科のドクターの講演を聴きました。

 「最近、重症の統合失調症と診断される人は減りました」といっていました。

 「その理由は、個人の多様性が社会的に認められたので、軽度の統合失調症の人が周りから、差別視されなくなったためかもしれません」と言うのです


 最近、いわゆる残虐な犯罪が増えてきています。

 そのような残虐な犯罪を犯したとき、必ず問題になるのが、「精神病ではないか?」という問題です。

 これもよく考えると、「病気」と名付けられた人々には迷惑なことです。

 「病気」も「犯罪」も社会が名付けているだけかもしれません。

 日本で人を殺せば殺人罪ですが、アメリカの大統領が「イラクを攻撃しろ」と言ってイラク人をたくさん殺しても愛国者になるだけです。

 「病気」かもしれないと考えません。

 不思議ですね。

 
WHOの考え方

 世界保険機構(WHO)は、「病気」を分類して統計として役立てています。

 その分類方法を国際疾病分類(ICD)と言います。

 病気の分類と平行して、人の健康状態を評価する分類を作っていました。

 これが2001年に改訂されました。

 国際生活機能分類(International Classification of Functioning, Disability and Health :ICF)と言います。

 ICFの前の分類、国際障害分類は、生活に及ぼすネガティブなものとして障害をとらえ分類していました。

 しかし、人間はいわゆる障害を持っていても健康を増進できるという考え方が採用され、ICFの登場となりました。

 ICFでは、病気を健康と対立する概念としてとらえていません。

 機能と障害と健康(変調または病気という狭義の健康)が「人」の存在だと考えています。

 広義の健康(「人」として充分に活動できること)は病気の有無によらず、人間と社会の状態を指すと考えています(と、わたしは読んだ)。

 じつは、最初に書いた「キネステティク 健康増進と人の動き」のタイトルを決めるときに、健康に対する他の国の考え方を調べました。

 日本だけが「健康維持」という表現を使い、他の国は「健康増進」という表現をしていることを知り、びっくりしました。

 サイバネティクスは20世紀半ばから、社会学、医療、心理学にまで取り込まれましたから、ICFの中にサイバネティクス的健康観が入っているのは、当然です。

 ICFの考え方は、日本には、介護保険という形で入ってきています。

 介護保険は、そのひとが日常生活を送るのに障害となっているものを明らかにして、それと折り合いをつけるような介護を提供しようというものです。

 個人の中の障害をのぞくのは健康保険です。

 介護保険は、その人の周りの人的物理的環境を変えることで、社会と人間の健康増進をはかります。

 もちろん、制度の志と現実はあっていません。

 今の日本では、「制度として得られる援助はみんな受けよう」として、不要な介助まで求めて動けなくなる介助を求める人がいます。

WHOのページを読む

 WHOのウェブ・ページは膨大で読むのもうんざりします。

 ははは、このサイトと同じだぁ。

 というわけで、ICFについて一つだけ個人的な英語の学習として翻訳してみました。

 このページ
です。

 翻訳の精度は保証しないので、人に話すときは自分で元のページの英語を読んでください。

 私が協調したいところを青の太字にしています。

「健康と障害についての新しい基準」

 2002年4月17日 みんなが自分の能力をフルに使えるようになる画期的分類


 国際写真コンテスト結果発表

 障害を広い意味での健康の一部ととらえて、機能、健康、障害を分類する画期的に新しいツールをどのように使うかという概略を決めるために、本日、トリエステに70カ国が集まりました。

 人がどのように機能しているかということと、能力をフルに使い生きるために何が必要かということに焦点を当てることにより、この分類は孤立や差別を防ぐのに役立つでしょう。

 「健康と障害についてのWHO会議」は、昨年発足した国際生活機能分類(International Classification of Functioning, Disability and Health :ICF)を実現するための大臣級会議です。

 WHOの事務総長Dr Gro Harlem Brundtlandは「ICFは、今までの健康と人の機能についての考え方を変えさせます。

 この新しい物差しは、健康に従事する人々が、自分が住んでいる社会でフルに生きるためにできることを理解するのに役立ちます」と言います。

 従来の健康の尺度は疾病のレベルと死亡率に基づいて作られていますが、ICFでは「人生」に焦点を当てています。

 つまり、生産的で満足な人生を送るために、その人の健康状態に合わせて、どのように生きるか、そのために人の「機能」をどのように改善できるかということです。

 ICFは医療活動、ケアと社会参加のための法的社会的手段、個人やグループの人権保護というもののために役立つ可能性も持っています。

 イタリアのフリウリ・ヴェネツィア・ジューリア州のトリエステで3日間の会議が開かれます。

 招集されるのは70カ国から健康についての省庁、関係機関、NGO、科学者、研究者などの様々の分野の代表者です。

 障害についての理解と知識をそれぞれの国の政策と法律の中にICFをどのように役立てられるかが議論されるでしょう。

 ICFは障害の社会的側面を対象に含め、人の機能に対する社会的、身体的環境の大きな影響を記述するメカニズムを提供します。

 たとえば、スロープもエレベータもないので、自分のオフィスのある建物にははいるのが難しいと車いすに乗った人が思ったときには、そこにICFの関わっていく問題があります。

 変えられるべきものは建物であって、人がその建物に合わせるべきではありません。

 その車いすに乗った人は、「働く場所をほかに見つけなければならない」ということではないということです。

国際写真コンテスト応募作概観

 WHOの写真コンテスト「健康と障害の映像」には約1000点の白黒写真、カラー写真、デジタル写真が応募されました。

 最終的に20点の作品が選ばれました。(20点の作品は報道のためには無料で提供されます。

 また、www.who.int/classification/icfからダウンロード可能です。注2006年現在、該当ページなし)

 約200点がタイトルと順位とともに会議の時に展示されます。総額1500ドルの入賞者は来週発表されます。

それらの写真の中のいくつかが示しているとおり、車いすを使わなければならない人や視力が著しく制限された人々が少数派ではありません。

 ICFでは普通に機能する能力を減少させるようなすべての疾病や状態を包含しています。

 すべての人はその人生において、健康の減少やある程度の障害を経験します。


 この意味で、障害は人類共通の経験です。

 たとえば、ノーベル賞を受賞した数学者のジョン・ナッシュは精神疾患に悩まされていました。

 また、世界的な宇宙学者ステファン・ホーキングは多くの身体障害を持っています。

 ICFはすべての疾病や健康状態を同じ足場におくための基盤を提供します。

 障害の原因に向かうこのアプローチは精神障害を身体的疾病と同等と見て、鬱状態的な障害は世界的に大きな問題であるとの認識に至りました。

 つまり、現在では健康的な人生を送る年数が障害のために失われると理解されています。

 ICFは約65カ国の積極的な参加により10年間かけて作られました。

 文化、年代、性別を超えて適用できるかどうかについて、個人と全体についての信頼できて比較可能なデータが収集され、厳密な科学的研究がなされました。

 WHOは現在、健康についての共通言語を提供する基盤としてICFを用いたデータの収集をするために、世界健康サーベイを行っています。

 「健康を測れなければ、健康システムを管理も改善もできません。ICFは健康と障害を正確に測ることのできる物差しです」とWHO事務総長 Dr Brundtland は言います。

 わたしはWHO事務総長のいうように「健康を測ることができる」と考えてはいません。

 自分の健康が時間的に変化していると感じてみることはできますが、数値化できるとは考えていません。

 ICFは各項目ごとに「評価」しますが、これは仮の値だと思っています。

 大切なことは、ICFが「環境」と「人間」を一組として「健康」を考えているということです。

 このような考え方が、現実的だと思うのです。

ICFの写真コンテスト

 ICFの写真コンテストはここのページで、左の赤いバーの中の下の方のICF Photo Contest をクリックすると、見ることができます。

 ぜひ、ご覧ください。

 大切なことは、「憐憫・あわれみ」ではなく、その人は周りの社会とどのように関わっているのか、周りの社会はその人とどのように関わっているのかに気づくことです。

 大切なのは「もの」ではなく「関係」です。

 なくなった「もの」、たりない「もの」ではなく、機能という「関係」に気づくことが、障害を「健康」に取り込むために役立つでしょう。