さて、このようにありがたい「一般意味論」であります。 突然ですが、ここで、「科学論文の書き方」を説明します。 |
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科学論文はたいてい、以下の章立てで書かれます。 |
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1. タイトル + 要旨 2. はじめに 3. 研究方法 4. 結果 5. 考察 6. 結論 7. 引用文献 |
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どんなに良い科学論文といえど、読者が読まなければ、役に立ちません。 1.タイトルで読者の目を奪い、要旨を読ませます。要旨は内容を短くまとめたものですから、ここで読者の興味をかき立てます。 2. はじめにで「なぜ、この研究が必要なのか」を説明します。読者に「ほらっ、気になるでしょ。だから、この論文を読んで」と説得するところです。 3. 研究方法は、どのような方法で研究をしたかを詳しく書きます。これは読者が同じ実験を行なったときに、同じ結果が出るように書きます。 自分ならできるけど、他の人にはできないというのは、再現性がないので科学的と見なされません。ときには、試薬はどこの会社のロットナンバーのXXXXを使ったというところまで書きます。 4. 結果には、考察と結論に必要な結果のみを書きます。こんな苦労をしたということは書きません。 5. 考察で、従来の理論との違いや新しい理解を書きます。ここではこの論文の妥当性を実験結果に基づいて理論的にアピールします。 6. 結論は、結果から得られた考察のまとめをします。新しい発見や視点を短くまとめます。実験という実践を、言語により抽象化して多くのものに適用できるようにします。 7. 引用文献は考察で使った従来の理論などを載せます。 |
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以上が実験科学の論文形式です。 この形式では、観察を先に出して考察をしています。ですから、客観的で科学的に見えます。 しかし、「はじめに」で研究の必要性や目的を述べるという点から、どうしても興味のある結果」だけを取り上げているというそしりを免れません。 この「興味のあるところだけを見る」というのは、人間の観察の特性です。免れることはありません。 これをハンソンは理論負荷性と呼びました。「観察者の持っている理論によって実験結果の評価が影響を受ける」というのです。 結果を評価するという「考察」で理論負荷性から逃れることはできなくなります。 科学論文の「考察」は観察していることをもとにして、実験の中で起こっていることを推量しているのです。 ですから、科学論文の結論をそのまま信仰するのは危ないことです。 現実的なのは、「科学論文の結果とは、観察に基づいた発表者の推量である」ことを理解することです。そうすれば、あなたは地面に足をつけて歩けます。 |
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医学系の論文はもっと推量が多くなります。 対象が人間ですから、実験論文のように、結果がクリアに出てきません。 統計学で推量します。 たとえば、「ある病気に対する新しい治療法を10000人に試したら、70%の人に有効だったから、この治療法は有効だ」という結論が出ます。 この結論では、目の前にいる一人の人に対して有効かどうかは言えません。 10000人のうち、7000人に効果があったからといって、目の前の人の体の70%が良くなって、30%がそのままということはないのです。 良心的な医者は、このような論文を読んで、「自分がどこを推量しているのか」を考えながら治療します。つねに、望まない結果が出てくる可能性を認めています。 科学を知っている医者は統計学を使って出した結果は、推量であることを理解しています。 科学を誤解している医者は、統計学で有意差が出たというだけで、信仰して治療します。 論文の価値は読者の能力で左右されます。 看護・介助の論文になるともっとすごいものが出てきます。 自分で動く人間の動きを、自分で動かない石の動きと同様に考えて、力学(メカニクス)を使うのです。 「人間は石と同じように扱えるだろう」という推量が事実のようにまかり通っています。 介助者にも被介助者にも「こころ」がないように書かれたものが科学的論文として珍重されます。 人間は一人一人違うのに、実験科学の論文と同じ形式で書こうとします。 でも、人間を対象にする科学と、実験科学は違っているようにわたしには見えるのです(ふふふ、「正気の発言」表現)。 かといって従来のように、「思いこみ」で患者さんの心を推量したことを観察のように書くものも科学的ではありません。 大切なのは、どれが観察で、どれが推量なのかを意識して明示して書くことです。読者もそれを意識して読むことです。 ということで、結局、一般意味論に落ちました。 |
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