「言葉」の使い方を観察するために、エリスは発言を2つに分けます。 「宣言」と「感嘆文」です。
「宣言」は、単に事実について述べるものです。たとえば、「試験がうまくできなかった」という発言です。
「感嘆文」は、「ああぁ、・・・だなぁ」というように、自分の判断、感情をいれて述べるものです。
たとえば、「俺って、駄目なやつだなぁ」というものです。
宣言は事実をそのまま述べていますが、感嘆文は事実ではありません。
宣言と感嘆文は違うものについて述べています。
これを同一視するのは狂気の沙汰です。エリスは宣言を「正気の発言」、感嘆文を「狂気の発言」と呼びました。
なんとなく、コージブスキーが「科学と正気」の中で、アリストテレス的考え方を、「狂気に走る」と書いたことが思い出されます。
エリスは、「人はまずは正気の発言をして、ついで狂気の発言をする」と言います。
たとえば、「試験がうまくできなかった。俺ってだめなやつだ」とか、「おまえのやることは気にくわない。
おまえは間違っている」とか、「結婚したい。結婚しないと負け犬になる」とか、「自己実現できないと、価値がない」という発言です。
発言の前半が事実に基づいていても、後半は自分の判断や感情です。
それを事実と同等に考えることが苦しさを生みます。
本質的に違うものを同じものとして扱っているからです。
希望が叶わなかったことは、残念なことでしょうが、まったく価値がないということではありません。
それはその人の「現在」です。それを価値がないものと判定してしまうと、自己の存在を否定してしまい苦しくなります。
「悲劇の破局」を自ら招くとエリスはいいます。
このような人は、片腕がなくなったときに、片腕がないことにこだわって、もう一方の腕を使って補おうとしません。
無いことを嘆き、あることに目を向けません。自ら、自分を不幸にします。
結局、自分がそのことをどう思っているかが苦しさの元です。
|