ライヒの性格分析

 1947年、雑誌ニュー・リパブリックに、「奇妙なケース ウィルヘルム・ライヒ」というタイトルでライヒの治療を歪曲した記事を載りました。

 接触や筋肉の緊張を見るなどということは、従来の精神分析ではなかったことですから、インチキで卑猥なことをしていると思われたのです。

 現代なら「前意識状態の筋肉の緊張が性格を示している」と言えば、理解されるでしょう。

 しかし、当時は今と違う「道徳」があったのです。

 米食品医薬品局(FDA)は、ライヒのオルゴン集積器の調査に乗り出しました。

 この陰湿な攻撃にライヒは怒り、「聞け、小人物よ!」を書きました。

 この本については、最後に解説します。


「聞け小人物よ!」
大平出版社


 1952年、ライヒはオルゴンを使って、気象を操作できると、発表しました。

 雲を霧散させる装置として、Cloud Buster を作りました。

 1953年に2回、テレビで実演しました。

 ライヒはオルゴンを神経症の治療に使えるだろうと研究を始めました。

 1954年2月20日、FDAは、メイン州のポートランド市の地方裁判所にオルゴン集積器がインチキ治療であると訴えました。

 ライヒは、科学的研究を裁判所が判定するべきではないと主張しました。

 しかし、ライヒの言う「感情の伝染病」は、アメリカの裁判にも感染していました。

 この前年から、上院議員のジョセフ・マッカーシーが、有名な「赤狩り」を開始していました。

 共産主義者は、アメリカの敵と見なされていました。

 有名な映画監督や俳優も、共産党員であるとして排除されました。

 オーストリアから亡命してきた、かつてドイツ共産党員であったライヒの主張は当然のごとく無視されました。

 判決は、オルゴンについての情報を提供してはならない、オルゴン集積器はすべて破壊すべし、ライヒの著作からオルゴンに関する記述をすべて除去するか、焼却すべしと命じました。

 判決はライヒについてのものでしたから、ライヒの弟子のシルバートが研究を引き継ぎました。

 1954年、シルバートとともに研究のためにアリゾナに移動したライヒは、再び裁判所に訴追されました。

 オルゴン集積器を移動させたためです。

 1956年、ライヒは懲役2年の判決を受けました。

 ライヒは自分の心臓の状態が悪く、懲役期間を満了することはないだろうと言っていました。

 1957年11月3日、懲役の1年後、仮釈放を前にして、ペンシルバニア州のニューリスバーグ刑務所で亡くなりました。


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