がんばらない

 がんばらないで、そのときできることをする。

 これが人間的です。

 目標を掲げて、かんばることを教育するのは、行動の結果で評価する行動主義です。

 文字通り、死ぬまでがんばって、死ぬでしょう。

 がんばる人は、他の人にもがんばることを求めます。

 がんばることを高く評価する社会は、みんなでがんばって、死ぬまでがんばって死んでいきます。


 精神科では、「鬱病の患者さんに『がんばれ』と言ってはいけない」と教えられます。

 実は患者さんじゃなくても、「がんばれ」と言われる必要はないのです。

 今、ここで起こっていることに気づいていれば、それで十分ですしそれしかできないのです。

 「がんばれ」と声をかけたいときに、ちょっと考えてみましょう。

 「その人は、もっと力を出せるのか?」、「自分は『がんばれ』という以外に手伝うことはできないのか?」

 もし、「がんばれ」と声をかけるしか、できることがないのなら、「やりたいことをしていいよ」と言うほうが相手の気持ちを考えているかもしれません。

 「がんばる」という言葉に意味があると思いこんで、そのときの状況を忘れてはいけません。

 がんばっているときには、それに気づいて、それが長続きするはずがないことを感じなければなりません。

 「がんばる」ことを教えるのは簡単です。

 でも、「そのとき起こっていることを感じて、十分な行動をする」ことを教えるのはとても難しいことです。


 キネステティク、フェルデンクライス・メソッド、アレクサンダー・テクニーク、センサリー・アウェアネスのいずれも、いつまでにこれを習得しなさいということは言いません。

 学習したい人は、つねに学習の場にいるだけです。

 学習は一人一人の能力と状況により、進み方が違います。

 学習は個人の中から始まり、中で進みます。

 がんばったら学習できません。

マズローの「人間性心理学」から

 「がんばらないことの教育」はフェルデンクライス・メソッドの学習で理解しました。

 しかし、こんなことを書くと、教育者から文句がきそうなので、ここでアブラハム・マズローに責任を転嫁しましょう。

 「人間性心理学」(産業能率大学出版会)の第10章に表出行動としてのダンスについて書いています。

 198ページ

 訓練なしで上手になった踊り手はたくさんいる。

 しかし、ここでも教育は助けになる。

 それは、違った種類の教育で、自発的になることや自由奔放になること、タオにおけるような自然で故意でなく無批判で受動的であること、努力しようとしないことなどの教育である。

 人は、抑制、自己−意識、意志、コントロール、文化変容、威厳などから解放される「学習」をしなければならないのである。」


 199ページ

 自己実現の方向に向かうためには、いくらかの欠くことのできない動機付けの問題を解決する必要がある。

 それは、意識的に、目的的に、自然発露的になることである。

 こうして人間発達の最も高次の段階では、対処と表出の区別は他の多くの心理学における二分法と同様に、解決され越えられるのであり、何かに向かって努力することは結果として努力しないことにつながるのである。


 後者の引用は難解でしょう。解説しましょう。


 自己実現、つまり自分自身がどんな存在であるかを知るためには、どんな『動機付け』があるのかと言うことが問題になります。

 自分がいつでも自分を意識できて、目的意識をはっきりともち、自分から自然にやりたいという状態になりたいということが『動機』なのです。

 自分自身の中にあるものが自然とあわられる来ること、つまり『表出』と、自分の意志で何かをしようと外側の世界に働きかけること、つまり『対処』の二つを、ほかの心理学では分けています。

 人間性心理学でも、人間の最高に発達したとみなされいる『自己実現』の段階で、この二つを分けることができ、さらにその区別のないところまで持って行けます。

 低次の段階での基本的欲求、つまり欠乏欲求を満たすために、何かに向かって努力するということが、自己実現の段階では、自己を解放して自然にふるまい努力をしないことに結びつくのです。


 まぁ、こんな意味でしょう。

 というわけで、もし、「がんばらない」、「努力しない」ということに文句がある人は、マズローの「人間性心理学」を読んで考えてください。

 自己実現の誤解
も参考にしてください。

 なお、タオというのは、中国の老子の教えである「道」のことです。

 孔子や孟子が唱えた「人を中心とした考え」ではなく、自然の構成要素として全体の流れに任せなさいという考え方です。