がんばらないで、そのときできることをする。 これが人間的です。 目標を掲げて、かんばることを教育するのは、行動の結果で評価する行動主義です。 文字通り、死ぬまでがんばって、死ぬでしょう。 がんばる人は、他の人にもがんばることを求めます。 がんばることを高く評価する社会は、みんなでがんばって、死ぬまでがんばって死んでいきます。 |
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精神科では、「鬱病の患者さんに『がんばれ』と言ってはいけない」と教えられます。 実は患者さんじゃなくても、「がんばれ」と言われる必要はないのです。 今、ここで起こっていることに気づいていれば、それで十分ですし、それしかできないのです。 「がんばれ」と声をかけたいときに、ちょっと考えてみましょう。 「その人は、もっと力を出せるのか?」、「自分は『がんばれ』という以外に手伝うことはできないのか?」 もし、「がんばれ」と声をかけるしか、できることがないのなら、「やりたいことをしていいよ」と言うほうが相手の気持ちを考えているかもしれません。 「がんばる」という言葉に意味があると思いこんで、そのときの状況を忘れてはいけません。 がんばっているときには、それに気づいて、それが長続きするはずがないことを感じなければなりません。 「がんばる」ことを教えるのは簡単です。 でも、「そのとき起こっていることを感じて、十分な行動をする」ことを教えるのはとても難しいことです。 キネステティク、フェルデンクライス・メソッド、アレクサンダー・テクニーク、センサリー・アウェアネスのいずれも、いつまでにこれを習得しなさいということは言いません。 学習したい人は、つねに学習の場にいるだけです。 学習は一人一人の能力と状況により、進み方が違います。 学習は個人の中から始まり、中で進みます。 がんばったら学習できません。
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