さて、ここまでは下準備です。
これからが本題です。
ゲシュタルトでは、非言語的コミュニケーションを重視します。
パールズのセラピーの実録では、クライエントの言葉なんか信用していません。
クライエントの動きを見ています。小さな不自然な動きをとらえて、そこに焦点を当てます。
「今、何をしているのかな?」、「今、何をしたいのかな?」、「今、何を感じているのかな?」
この3つの質問は、介助の時にも同じく重要な意味を持ちます。
キネステティクが教えるものは、この3つの具体化です(と、わたしは思う)。
「今、何をしているのかな?」は、キネステティクでは、「今、重さをどこにかけているのかな?」、
「今、頭のマスと胸郭のマスの関係はどうなっているのかな」、「今、どの基本体位なのかな?」、
「今、押しているのかな、引いているのかな?」
などという質問に置き換えられます。
「今、何をしたいのかな?」は、
「今、頭と胸郭のマスの関係をどのように変えたいのかな?」、
「今、骨盤のマスの重さをどこに流したいのかな?」、
「今、右の下肢のマスを屈曲させたいのか、伸展させたいのかな?」
という質問に変わります。
「今、何を感じているのか?」は、インタラクションの感覚と、インタラクションの種類につながります。
「動きがその人と環境のゲシュタルトの完成させる」と考えると、キネステティクの理解が進みます。
注意していただきたいのは、この考え方はわたしがキネステティクとゲシュタルト療法を学習して、自分で思っていることです。
ですから、これが正しいとか正しくないとかいうものではありません。
「このように考えると理解しやすい」というだけのことです。
あなた自身の考えは自己責任でお願いします。
介助の時に、いっしょに動くときを考えてみましょう。
「さあ、動かしてあげるから、丸くコンパクトになりましょう」と言って、全介助すると、被介助者は自分と環境(介助者)の境界がわかりません。
自分で動いた感じはありませんから、オリエンテーションが無くなります。
それは「融合 コンフルーエンス」です。
「あーっ、早くしないと遅れるから、手伝うわね」と言って、着替えを手伝う、というより横取りすると、介助者と被介助者の境界は被介助者の中に入っていっています。
介助者の「投射 プロジェクション」で、被介助者は、「俺自身がしっかりしないから、だめなんだ」と「反転 リトロフレクション」になります。
「あーっ、うまく介助できない。私自身が体を鍛えなければならないのに、こんなに細い腕だからだめなんだ」と思いながら、立位を手伝うと、介助者は「反転」です。
介助者が立つために介助者自身が出すべき力も、被介助者が出さなければならなくなります。
「起きあがるには、頭を起こさなければならない」と思うと、丸飲み(イントロジェクション)です。
「頭を起こす」という外側の基準を飲み込んでいます。
パールズは余裕があれば、「今、何が邪魔しているのか?」と「今、何を期待しているのか?」を追加します。
介助であれば、「今、何が動きを邪魔しているのか?」です。
立ち上がるときに首の後ろの緊張が背骨の動きを邪魔しているのかもしれません。
端座位の前方移動の時に、胸郭と反対の方に、頭を曲げているのかもしれません。
「自分が自分の行動を邪魔していることに気づく」ことは、ゲシュタルト療法でも、介助でも同じく重要です。
「今、何を期待しているのか?」は、期待していることから「今」を知ることになります。
介助では、「今、どんな動きを期待していて、実際には何をできるのか?」を問うことになるでしょう。
そうすると、「仰臥位から正座ができると期待している。
しかし、腹筋はそれを許さない。
だから、一度側臥位になって、四つんばいの変形から、座位になろう」と考えられるようになります。
パールズは身体と精神は一つだと言います。
身体行動と精神活動は表裏一体です。
ですから、行動の制限は「習慣的考え」が、作用しているかもしれません。
これはアレクサンダー・テクニーク、フェルデンクライス・メソッド、センサリー・アウェアネス、そしてキネステティクに共通の考え方です。
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