「よくそんな馬鹿なことを考えられるわね。
そんなに右回りをしてられないわよ。」
「それが固定された発想なのだ。
わたしは親切に具体例として右回りといっただけだ。
家の外壁に沿えば左回りでも、玄関に到達できる。
玄関にまで行く途中で庭から居間にはいることもできる。
右回り左回りという言葉には意味がない。
言葉自体に意味はない。
意味は体験できる現実の中にある。」
「よくそんなにつぎつぎと考えつくわね。」
「こんな考えには意味がない。
考えるためには、頭の中の内部言語が使用される。
他の人とのコミュニケーションには、外部言語が使われる。
外部言語は内部言語と語彙と構造が共通であるが、全く同じではない。
だから、考えはそのままの形で外部言語として表現されない。
考えていること自体も内部言語にするという段階で、具体的なものを抜かれて抽象化される。
言葉は現実の一部を象徴するだけである。」
話しているうちに妻は、キッチンにコーヒーを淹れに行った。
このようにわたしはテーブルの位置をずらすだけでも、哲学的、認識論的説明をしなければならない。
さらに、その説明の大切なところは聞いてももらえない。
わたしほど不幸な人間は、わたしだけである(この文章は論理学的に常に正しい)。
妻がコーヒーをキッチンから持ってきた。
妻は、わたしがずらしたテーブルの横をすり抜けて居間に入ってきた。
このように、わたしが多大な時間をかけて説明したのに、わたしの提案した方法は採用されない。
わたしは不幸な人間なのである。
これではわたしが鬱になるのも無理はないと思う。でしょ?