「学習できるということを、学習すること」が二次学習でした。では、その上のレベルの学習はあるのでしょうか?
ベイトソンはあると言います。しかし、二次学習まではたいていの人ができるが、三次学習に気づく人は、きわめて希だと言います。
どんなものかは明示していません。
ベイトソンの学習についての考え方はシステム的です。一次学習が構成要素となって、二次学習が形成されます。
複数の一次学習をすることで、一次学習どうしのインタラクションができてきて、二次学習というシステムができます。
すると、三次学習は二次学習を構成要素とするシステムです。二次学習から見ると、メタシステムです。
「学習できるということを学習した」と同じように、学習以外のいろいろなことを体験していく中でできることになります。
私は、外国語の習得が、表現手段の習得であると気がついて、自分が表現手段を学習できると「二次学習」したつもりなのです。
しかし、ベイトソンの言う三次学習は分からない。語学と同様にジャズの演奏も表現手段の習得だと気がついたのですが、これも二次学習の範疇です。
というわけで、三次学習については、わたしには説明不能です。
以上までが、2006/09/02までの理解でした。
09/02に赤本制作協力者の戸田さんと話していました。
戸田さんは看護教官をしています。
「『何かを知る』のがベイトソンの言う一次学習でしょ。」
「そうだよ。」
「そして、『一次学習をできることを学習すること』が二次学習でしょ。」
「そうだよ。それが自分の発見になる。
人は一次学習したときには、必ず二次学習をしている。
つぎからは、違う局面でも試行錯誤と発見で問題解決できることを学習するんだ。
しかし、つねに二次学習しているということに気づかない人が多い。」
「そうよね。」
「そして、教育は学習の環境を作ること」
「それじゃ、学生に『二次学習の環境を与えることができるということを学習することは三次学習』じゃない?!」
「あっ、そうだ!!!
だから、ベイトソンは学生から、『知っているけど自分たちに教えないものを持っている。何かを隠している』と言われたんだ!。
学生は教育するという体験がないから、ベイトソンが教育の体験から学習した三次学習の意味を伝えられなかったんだ!。
体験したことにない学生に言葉では意味が伝わらないから。」
というわけで、三次学習について理解できました(と思う)。
わたしの理解した三次学習は、以下のように表現できます。
人間には、試行錯誤と発見により問題解決できるという学習(=二次学習)があり、それを実行できるということを体験から学習すること。
言い換えると、二次学習のチャンスを提供できることに気づくこと。
「二次学習のチャンスを提供すること」が三次学習の結果であることを気づかずに、それまで自分のセミナーでやっていました。
そして、その学習は、キネステティク、フェルデンクライスメソッド、アレクサンダー・テクニーク、センサリー・アウェアネスで提供されていました。
しかし、誤解しないでください。
これは体験から学習することであり、言葉で学習することではありません。
ですから、この言葉を読んで、自分の体験の中に、この言葉で納得できる意味があり、それを実行してみて、役に立ったと体験できたときに、初めて理解できることです(と思う)。
ベイトソンに問うことはできません。
たぶん、ベイトソンはこう考えたのだと思うのです。
共通の理解をできて、ちょっと見方の違う人と話すときに、お互いの頭の中が整理されます。
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