実は「科学」には、実体がありません。
ある時代の科学が、次の時代では古くさい原始的なものとされています。
相対性理論を発表したアインシュタインでさえ、電子や陽子の存在は確定できずに確率論的に決定されるとした量子論の台頭には、「神が世界をサイコロの目に任せるとは信じられない」不快感を示していました。
というわけで、科学とはその時代の合意であるという説も出ました。
この「時代の合意」をパラダイムといいます。
クーンが1970年代に唱えました。
ものごとの概念を変えるような時に、「パラダイム・シフト(パラダイムの転換)が起きた」というように使われます。
また、「科学とは反証可能性を持つことだ」とも言われました。
あるものが、科学であるためには、それについての反証をあげる「方法」がなければならないというのです。
いろいろな宗教の信者は神や仏の存在を信じています。
「信じています」なんて言うのは、不信心者です。
本当の信者は「私は神が存在することを知っています」と言います。
頭の中の認識ではなく、その存在を感じているのです。
このような人々には神様は存在するものですから、反証可能性はありません。
信仰は科学ではありません。
同様に「飲み続ければ、必ず効果の出る中国四千年の秘法のやせ薬」、「体を洗うだけでやせる石けん」、「ヨン様は素敵な人」なんてものは、科学ではありません。
太っている人はやせる前に死んでしまうか、やせて死ぬかのどちらかですから、「飲み続ければやせる」ことに反証可能性はありません。
「体を洗うだけでやせる石けん」は、私がイスラエルに行ったときに買ってきました。死海の塩石けんです。
確かに痩せました。石けんと、財布が痩せました。
ですから、反証可能性はありません。「ヨン様は素敵」というのは、そう思ってしまえば反証可能性はありません。
ですから、これも科学ではありません。
反証する「方法」がないものは、信仰になります。
反証する「方法」はあるけれど、その反証がうまくできないときは、「その仮説は妥当だろう」と思われます。
数学以外の学問では、それでも積極的に証明されたわけではありません。
否定されないだけです。
最近は、統計学を使っただけで科学であるかのように主張する人が学会の学術委員会にもいます。
しかし、それでいいのでしょうか?
「統計学で有意差が出たから科学的に証明された」ということを無条件に信じてしまっては、「信仰」になります。
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