ライヒは、ここに典型的な小人物の行動が示されていると言います。
自分より自由な人間を見て、自分も自由になりたいと望むのです。
しかし、いざ自分の責任で自由になれと言われると尻込みをします。
自由になるために、何かの行動を起こすことは、今の立場から変わることです。
そこにいたままでは、苦しいし、楽になれないと感じているのです。
しかし、その苦しいところから、立ち上がって新しいところに行くことは、今の安定を失うことになります。
誰かに引っ張ってもらいたいのですが、自分で先頭に立ちたくはありません。
小人物は、失うことが恐ろしいのです。
キリストは自由な人でしたから、失うことは悲しいことではありますが、おそれない。
小人物は、今の立場を失うことが恐ろしいのです。
ですから、イエスの前では、イエスを失うことが恐ろしいから、「死んでもついて行く」と言います。
しかし、最後は自らの命を失うことが恐ろしいので、イエスを見捨てて逃げていったのです。
また、小人物は「目覚めている」ことができません。
実は、これは、G.I.グルジェフも同じように聖書を引用して述べていることなのです。
小人物は、イエスに求められた祈りの間さえ、自分のしていることに「目覚めて」いられません。
イエスの悲しさは、そのような小人物の中にいることだったかもしれません。
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