センサリーアウェアネスと趙洲喫茶去
センサリー・アウェアネスと趙洲喫茶去(じょうしゅうきっさこ)


 (じょうしゅうじゅういん)は、唐代末の禅宗の高僧です。

 多くの人が、彼の元に禅を教わりに来ました。

 趙洲禅師の言葉や行動は、「趙洲録」という本になり、禅の公案になっています。

 公案とは、禅をどの程度極めたかを試験する問題集のようなものです。


 趙洲喫茶去


 師問二新到 上座曾到此間否 

 趙洲禅師のもとに新しく二人の僧が来ました。その僧に趙洲禅師は問いました。「ここに来たことがあるかな、ないかな?」

 云不曾到

 一人が「ありません」と答えました。

 師云 喫茶去

 趙洲禅師は言いました。「茶を飲みに行きなさい」

 又問 那一人曾到此間否

 もう一人の僧に趙洲禅師は問いました。「ここに来たことがあるかな、ないかな」

 云曾到


 僧は答えました。「あります。」

 師云 喫茶去

 禅師は言いました。「茶を飲みに行きなさい。」

 院主問 和尚不曾到教伊喫茶去即且置 曾到為什麼教伊喫茶去

 横で聞いていた院主(寺務総長)が不思議に思い聞きました。「和尚は、来たことがないという僧に、『茶を飲みに行け』と言いました。これはよいとして、来たことがあると答えた僧にも『茶を飲みに行け』と言われたのは、なぜですか?」

 師云院主 院主應諾

 禅師は「院主」と呼びかけました。院主は「はい」と答えました。

 師云 喫茶去


 趙洲禅師は言いました。「茶を飲みに行け」


 さて、読み進む前に、上の公案を考えて、自分なりの解釈をしてください。

 わたしが、「この解答が正しい」と言うことはありません。

 ただ、あなた自身の考えをまとめておくと、後から良いことがあるかもしれません。


 2007/05/30-31に京都の乾窓院を会場にして、ジュディス・ウィーバーのセンサリー・アウェアネスのセミナーがありました。

 日本国内でセンサリー・アウェアネスのセミナーを受けるチャンスは、1年に一回あるかないかです。

 知り合いに声をかけたら、7名が申し込みました。

 合計30数名のセミナーに、知り合いが7人もいるというラッキーなセミナーでした。

ジュディスとハルさん(主催者)と仲間たち

 「センサリー・アウェアネスとは何か」と問われると、困ってしまいます。

 手短に説明できないのです。

 なぜならば、多くの人は、自分の知っている言葉で説明されることを望みます。

 わからない言葉で説明されてもわからないからです(当たり前です)。

 ところが、センサリー・アウェアネスは、多くの人々が忘れていたことを思い出させるセミナーです。

 ですから、多くの人は説明されても、説明の内容が理解できません。

 忘れているからです。

 というわけで、センサリー・アウェアネスのセミナーは体験しなければ、理解できないものです。

 言葉で説明できません。

 そんなセミナーに、わたしの言葉につられて、7名が参加しました。

 わたしは詐欺師になれるかもしれません。


 センサリー・アウェアネスのセミナーは、言葉で完全に説明することは、不可能ですが、読者が気づけるかもしれない説明は可能です。

 そのために、センサリー・アウェアネス以外の体験によって習得した言葉を借りることができます。

 言葉を借りることのできる分野は、一般意味論、実存主義と禅です。


 一般意味論も実存主義も禅も、一般になじみのないものですから、ますます理解不能かもしれません。

 まぁ、気楽に読み流してください。


 今回のセミナーの副題は、"Touch and Presence"でした。

 きっと、あなたは Presence(プレゼンス) の理解に困るでしょう。

 ジュディスは、静かに座って指を一本、上に上げていくことを促しました。

 自分が選んだ指を、静かに上げ、胸の前を通って、頭の上に上げていきます。

 どんなやり方をしても良いのです。

 何度か繰り返します。

 そして、何を感じるかが問われます。

 この問いには、言葉で答える必要はありません。

 自分の中で起こる変化に気づくかもしれないチャンスを与えられます。

 何かを気づかねばならないというのではありません。

 気づくかもしれないのです。

 気づかなければ、気づかないままでよいのです。


 これが Presence です。

 「こんなばかばかしいことのために、お金を払ってまで、セミナーを受けるのか」と思う人がいるかもしれません。

 その通りなのです。

 こんなばかばかしいことの中にあることさえも、感じることを忘れている人がいるのです。


 センサリー・アウェアネスは、「感じることを再学習する」セミナーです。

 ですから、「知ること」は必要ありません。
 
 ただ、そこで起こっていることを感じればよいのです。

 ですから、言葉による解説は、邪魔になります。

 ジュディスは、決して解説も解答も説明もしません。

 センサリー・アウェアネスのセミナーには、正解も誤った答えもありません。

 そのままを受け入れるだけです。


 というわけで、解説は邪魔です。

 わたしは解説しませんが、自分の感じたことと、それを元に考えたことを記すことができます。

 というわけで、このページに書かれていることが、真実だと思わないようにしてください。

 わたしの体験談です。

 これは、セミナーの中で、シェアリングとして行われることです。

 シェアリングSharingは、「分け合う」ことですから、教えることではありません。

 シェアリングの時には、そのワークの中で「自分が何を感じたか」を話します。

 参加者の「感じたこと」に対して、ジュデイスが、「とてもおもしろいことです。わたしもこんなことがありました」というように、話してくれます。

 ジュディスは、40年以上もセンサリー・アウェアネスのワークをしているからです。


 わたしはセンサリー・アウェアネスのセミナーに参加するのは、今回で三回目です。

 一回目の参加で、シェアリングの時に、おもしろいことことがありました。

 ある参加者が、他の参加者のシェアリングの発言にたいして、「あなたの話している言葉がわからない。もっと、わかりやすい言葉で話してほしい」と主張したのです。

 多くの人は、当然の主張だと思うでしょう。


 わたしにとって、この主張はとてもおかしいものでした。

 シェアリングは、発言者が自分の体験を「分け合う」ことです。

 ワークの時に、共通の体験をしていますから、言葉の中身はすでに共通体験されているのです。

 発言者が「自分の感じたこと」について、話している限りはです。

 もし、話し手が「考えていること」を話しているのなら、聞き手はそれを理解する必要はありません。

 「考えていること」を議論しあうチャンスは、世の中にいっぱいあるからです。

 「考えていること」はシェアリングの時間に話すことではありません。

 ですから、「自分が体験したこと」をシェアリングの中で語るときには、その言葉の「意味」は、すでに他の参加者の中に体験としてあります。

 シェアリングの発言を聞いている人は、「あのワークの中で感じたことを、このひとはこのような言葉で表現するのだな」と受け入れることができます。

 国語辞典に書いてある言葉の意味を持ってきて、「この言葉はこういう意味だから、あなたの言う言葉はおかしい」と判断すると、苦しいことになります。

 シェアリングの時に、発言者は自分の体験したことについて、「言葉」を与えているのです。

 同じワークをした参加者に、自分の中からわき出る言葉で語るとき、自分の辞書が書き換わります。

 他の参加者が持っている辞書に追記するチャンスを提供すると同時に、自分自身の辞書に書いてある言葉に、「新しい意味」を書き加えています。

 自分の持っている古い言葉に新しい語彙を加えたり、従来の語彙を修正したりする操作が、シェアリングです。

 ですから、ジュディスは「シェアしたいと思ったら、話してください。シェアしたくないと思ったら、話さなくて良いです」と言います。


 人間は、言葉を使うことができます。

 言葉により記憶しておくことができます。

 「今朝、ご飯を食べた」という言葉が頭の中に浮かぶとき、ご飯を食べた体験を思い出せます。

 もちろん、茶碗の形を思い浮かべても、ご飯を食べた体験を思い出せるでしょう。

 もし、言葉がなければ、「ご飯を食べた」ことを、思い出すために茶碗の形を思い出すかもしれません。

 たとえそうしても、「ご飯を食べたこと」を瞬時に思い浮かべられないかもしれません。

 言葉は、できごとに効率の良い「象徴」を与えることができます。


 過去の事柄を、言葉で記憶できると、未来を考えることができるようになります。

 Aが起こったという記憶のあるときに、Bが起こるという体験をすると、次に、Aが起こったときに、Bが起こった記憶が呼び起こされます。

 こうして、今、起こっていないBのことを考えることができます。

 これらの事柄に「言葉」を結びつけると、その連鎖ができます。

 このようにして人間は「思考」という能力をえました。

 言葉はとても有用なのですが、過去と未来を語るとき、それは現実をあらわしていません。

 占いで未来のことを考えることはできますが、語られることはすでに確定したことではありません。

 未来を語る言葉も、過去を語る言葉も、現在ではありません。

 現在は、今、ここで感じることができて、行動により変えることのできるものです。

 現在自分の回りで起こっていることは、自分の感覚でわかります。

 「自分がわかること」は、「今、ここで自分の感じられること」なのです。

 これが、Presence です。


 フランスのデカルトが、「我思う故に我あり」と言い、「思考」が人間の至上の能力であるかのように考えました。

 そして、思考の結果、絶対的な真理=神が存在すると、考えました。

 スコラ学派は、ギリシャのアリストテレスが「真理」の追求をしたこと、その「真理」は「絶対」的であることから、絶対神であるキリスト教の神と「真理」を同一のように見なし、アリストテレスの考え方を研究し、広めました。

 十字軍の遠征の時に、イスラム文化の中で行われていたアリストテレスについての研究を奪ってきたので、資料はたくさんあったのです。


 ドイツ観念論の創始者として名高いカントは、キリスト教のスコラ学派が「神は存在する」ということを前提にした哲学を作ることに疑問を持ち、論理的、理性的にそれを批判しようと試みました。

 純粋理性批判という本を書きました。

 そこで、「理性」「悟性」「感性」という三つの能力により、人間は世界を理解すると言いました。

 感性は感じる能力です。

 理性は、論理的に考える能力。

 悟性とは、「はじめからわかる能力」です。

 カントは自分が説明できないものを認めさせるために、悟性という「はじめから apriori(アプリオリ)」にわかる能力を仮定しました。

 愛とか、正義という言葉は、はじめからわかっているものとして説明不要とするために、人間には悟性があると考えたのです。

 そして、理性的に考えていき、人間の能力を超える神というものの存在を肯定も否定もできないと考えました。

 結局、わからないものをわからないと言うためだけに、長々と考えたのですが、その過程で「人間は完全に向けて進むもの」だと考えました。

 人間の完全な姿、人間のあるべき姿が「本質」として存在すると考えたのです。

 その本質を追い求めることが、人間の行うべきことであると考えました。

 このように、「・・・すべきである」という考えは、今ここではないことを人間に強要することになりました。

 現実から離れた理性による「思考」のために、人間は苦しむことになりました。


 このように、思考から言葉で作られた「・・・すべき」という制約が多くなると、世界が窮屈になります。

 現在にないもの、つまり今ここで自分に感じられないもののために、今ここにいる自分が苦しむのです。

 女は慎ましやかであるべきである。子供は親に従うべきである。教会に参拝に通うべきである。人生を全うするべきである。

 こんな言葉が、今ここで可能か否かに関係なく、あるべき姿を示すようになりました。

 こんなことに疑問を感じたのが、ドイツのハイデッカーです。

 ハイデッカーは、どのようにあるかではなく、「そのもの」を考えました。

 今、ここにあるもの、存在するということ自体を考え、現存在 Exixtenz を考えました。

 おなじように、ドイツの哲学者で詩人であったニーチェは、「ツアラツストラかく語りき」という本の中で、「神は死んだ」という言葉で、絶対神としてのキリスト教の神を否定したのです。

 ニーチェは、「絶対的存在」を否定しました。

 西洋的な「絶対」を否定し、相対的な判断が現実的であり、それが人間的であることを主張しました。

 ハイデッカーやニーチェの現実的な考えを、主義にまで進めたのが、フランスのサルトルでした。

 サルトルは、「実存は本質に先立つ」という言葉で、カントのドイツ観念論を否定しました。

 「人間のあるべき姿」という言葉が示しているのは、観念であり、実際の姿ではありません。


 観念論的支配に苦しんできた人々は、実存主義にしびれました。

 こうして、人間の実際の姿に基づいた生き方に、光が当てられたのです。

 人間の行動の規範が、神の定めた掟から、人間の意志に移されたのです。

 こうして人間中心主義とも呼べるもので出てきました。

 これが、心理療法に影響を与え、ロジャースのクライアント中心主義、エリスの論理情動療法、パールズのゲシュタルト療法の中に、根付きました。

 上記三つの心理療法のキーワード、「今、ここ」は実存主義のキーワードでもあるのです。


 実存とは、実際に存在することです。

 その存在は、観念ではありません。

 ですから、理性でとらえるものではありません。

 「今、ここ」にある存在ですから、はじめからわかっているものでもありませんから、悟性でとらえるものでもありません。

 カントが「悟性」と名付けたものは、その社会が認めている習慣的価値観でしかありませんから、悟性自体が存在しないとわたしは思います。

 ですから、「実存」は感性で捉えるものです。


 では、感性=「感じること」はどのようなことなのでしょう?

 人間は、どのように感じるのでしょう?

 人間の体には、感覚器があります。

 目には光の受容体があります。

 耳には音の受容体、鼻には匂いの受容体、、舌には化学物質の受容体、皮膚には圧の受容体、、筋肉には伸展を感じる受容体があります。

 これらの受容体は感覚器と総称されます。

 この感覚器は、刺激を受けると電気的に興奮し、感覚神経を興奮させます。

 感覚神経の興奮は、脳の感覚中枢を刺激し興奮させます。

 このようにして、感覚器が感じた変化を脳の感覚中枢に伝えています。

 感覚器が刺激を受けることを、生理学では知覚と呼びます

 知覚だけでは、私たちは何が起こっているかわかりません。

 知覚が感覚中枢の興奮を引き起こすと、認知されます。

 感覚中枢が興奮すると脳の中に電気的興奮を起こし、他の中枢に刺激が伝達されます。

 「腕に圧を感じた」という時が感覚です。

 いろいろな感覚器から来た感覚は脳の中の統合中枢でまとめられます。

 記憶の中から、以前の似たようなことを感じた時に起きた結果が呼び起こされると、「そのこと」が言葉になります。

 知覚が感覚となり、いろいろな感覚が統合され、その変化に「言葉」をつけたときが認知です。

 この「言葉」は、日常に使う言葉と同一ではありません。

 脳の中の言葉は、内部言語です。

 話す言葉は、外部言語です。

 内部言語は、外部言語とは違いますが、語彙と構造は同じです。

 なぜなら、人間は生まれてから親が語りかけたり、周囲の大人が語りかける言葉から、外部言語を習得し、その外部言語から内部言語を作ることで、思考できるようになったからです。

 これはヴィゴツキーが、内言論として主張しました。


 さて、ここまで来て、やっとシェアリングの意味がはっきりしてきました。

 体験で作られた記憶は内部言語で思い出すことができるかもしれません。

 その内部言語を外部言語で表現することが、シェアリングなのです

 ですから、このときの外部言語は、それまで自分が使っていた外部言語と同一ではありません。

 構造は同じままに、語彙が増えます。

 語彙が増えることは、「知識」が増えることです。

 ときには、構造も変化させるかもしれません。

 このようにして、体験から知識を増やすことができます。

 このように外部言語の語彙を増やすと、その外部言語で自分の思考を拡げることが可能になります。

 人間は、このようにして「体験から学ぶ」ことができます。


 先にあげた「指をあげる」というワークの後のシェアリングでは、次のように話しました。

 「はじめにあげたときは、ぎこちなかったけれど、繰り返すうちに楽にあげることができることに気づきました。

 楽にあがるときは、何をしているのかを感じてみました。

 指先を前腕が支え、前腕を上腕が支え、上腕を肩胛骨が支え、肩胛骨を胸郭が支え、胸郭を腰椎が支え、腰椎を骨盤が支えています。

 楽にあがるときは、骨盤や下肢まで動いて、指先の動きを支えています。

 指一本動かすときでさえ、体全体を使っていることに気づきました。

 そして、そのようにすると、呼吸が楽にできます。」

 このようなことが、「感じること」を許すことです。

 私たちは、生きている限り常に「知覚」しています。

 そして、神経疾患がなければ「感覚」まで行きます。

 でも、「認知」されないのです。

 感覚から認知になるのを邪魔しているものがあります。

 邪魔しているのは、「思考」と「激情」です。

 思考は本来、感じたものをもとに行われるものです。

 ところが、「かくあるべき」という思考パターンが習慣になっていると、「こんなことがあるはずはない」と思い、感覚を邪魔します。

 また、「何かをしよう」とする人は、今知覚していることを塞いで、「こうしよう」と考えていることばかりに注意を向けます。

 このような人は、「感じよう」としてかえって、「感じなく」なります

 「感じよう」とせず、「感じることを許す」ということを習得すれば、感じられるのに。


 感覚を塞ぐもう一つの要因は、「激情」です。

 感情は良いものです。

 「好き」という感情は、行動を引き起こす強い要因になります。

 心のエネルギーや、欲求、衝動と表現されることもあります。

 「嫌い」という感情も良いものです。

 自分の苦しさを避けることができます。

 この「感情」は、「情動」から来ます。

 情動は、外部の刺激により身体に起こる変化を感じることです。

 「軽くゆっくりと触れられる」、「お湯につかる」、「軽い振動を加えられる」ときに、体は「楽」になります。

 この「楽」や「苦」が基本的情動です。

 この体験が記憶され、次に同種の刺激を受けたときに、その感覚の記憶が呼び覚まされ、その後の結果が思い出されると感情になります。「感情」は感覚により記憶から呼び覚まされた情動です。

 ですから、同じ刺激をしても、ある人には、「好き」と言われ、別の人から「嫌い」と言われます。



 感情は生きるために必要なものです。


 感情がなければ、人生はつまらないものになります。

 人生をカラフルで、おもしろく、価値あるものにしているのが「感情」です。

 しかし、感覚が過去の感情を記憶の中から呼び覚ますことがあります。

 「あのとき、この感じを受けたときはこんなことが起こった。そうだ、こんなこともあった。このやろう!」と怒りだしたりします。

 このように、「今、ここ」の感覚が元になり、「今、ここ」のものではない感情に増幅されたものが、「激情」です。


 
この激情も、感情を元にして記憶に照らして「考えている」ことから発生しています。

 そして激情は、体を緊張させ知覚を塞ぎます。


 センサリ・アウェアネスでは、Presence を感じることを学習します。

 このPresenceは、存在感のことではなく、存在そのもの、ハイデッカーが現存在といい、サルトルが実存と名付けたものです。

 そして、人間性心理学で、「今、ここ」で表現されるものです。

 センサリ・アウェアネスのシャーロット・セルバーは、Being all around There 「そこにあるすべて」と呼びました。

 そして、「そこにあるすべて」は「感じること」で認知できます。

 感覚を認知に持っていくために、思考で邪魔しないことが、自然に生きるために必要なことです。

 シャーロット・セルバーは、「頭の中を静かにする」と表現しました。

 そして、ワークの意味は、「ほんのちょっと、今よりまともな人間になる」ことだと言いました。

 中国の老子は、「水のいっぱい入った器には、それ以上、水は入らない。空にすると、水が入る」と言いました。

 座禅するときは、雑念を払い、考えずに自分と向き合うことを求められます(そうらしい)。


 人間は、言葉を習得し、思考できるようになったことで、進化したように見えます。

 しかし、それは単なる変化です。

 自分に役立てるためには、思考のもととなる知覚と感覚が大切です。

 そして、感覚を深いものにするために、「感じることを許す」ことです。

 言葉はものそのものではありません。

 これは一般意味論でも教えることです。

 センサリ・アウェアネスは、一般意味論と裏表です。
 
 そして、禅の求めることは、思考から人間を解放すること、言葉の抽象性に気づき、上手に使うことを学ぶことです。



 センサリー・アウェアネスの体験を元にすれば、「趙洲喫茶去」について、従来と違う「意味」を読み取ることも可能になります。

 趙州の元に来た僧は、「来たことがあるか」という問いに、「あります」「ありません」で答えました。

 「あります」という答えと「ありません」という答えは、言葉は違っていますが、言葉の使い方としては、同種です。

 「来たこと」について、「ある」か「ない」に分けています。

 現実の多様性を考えず、一言で終わらせています。

 趙州禅師や僧たちがいた周囲には、いろいろなものがあったでしょう。

 木や土や伽藍があったでしょう。

 いろいろな人が周囲で座禅を修行していたでしょう。

 ここで、「木」「人」という文字から想像できるものよりもっと複雑でたくさんのものがあったのです。

 それを「ある」「ない」という一言で終わらせてしまうことが、この僧たちの現実に対する関わりの低さを物語っています。

 ですから、趙洲はふたりともに「現在を感じなさい」と茶を飲みに行かせたのです。

 茶という「もの」が良いというのではありません。

 もし、「お茶はよいものです」と言えば、これもまた、茶というもの、飲むという行為、その周囲にある現在を「よい」という言葉で終わらせてしまいます。

 現在を知るためには、茶だろうが、飯だろうが、小便だろうが、風呂だろうが、何でも良いのです。

 「茶を飲む」という行為だけを特別視するのは、おかしなことです。


 今、ここで感じていることを基板にして考えることができます。

 それが禅の行っていることです。

 だから、一人目の僧に対している時には、趙州禅師は「喉が渇いているだろう。水分をとった方がよいだろう」と思ったのかも知れません。

 また、二人目の僧には、「わたしにあって緊張しているようだ、茶でも飲んでゆっくりしたほうがよいだろう」と思ったのかも知れません。

 一人ひとりに違う理由を見いだしたかも知れません。

 結果的に同じ表現をしました。

 趙州禅師でさえ、自分がそのとき目や耳やにおいで何を感じたかを詳細に言葉にはできません。

 また、頭の中で何を考えたかもすべてを言葉にはできません。

 言葉はすべてを表現できるものではないからです。

 言葉が現実をすべて表現できない、思考が現実をすべて捕捉できないことは禅を組む修行で気づくことでしょう。



 ここまで書くと、院主の不勉強さがおわかりになるでしょう。

 院主は、禅が説く「言葉の限界」「思考の限界」を普段から教わり教えていたでしょう。

 でも、このような質問をしたことで、その勉強が単なる文字の習得でしかないことを示したのです。

 「院主」という呼びかけに、「はい」と答えてしまうことで、「自分」という存在を「院主」という言葉と同一視していることを示しています。

 院主の禅の学習は、現実の行動に出ていないのです。

 わかっているものは、「知っている、できる、やっている」の3段階で表現されます。

 院主は言葉として「知っています」し、若い僧に教えることも「できる」のです。

 しかし、「やっていない」のです。

 院主は「言葉ですべてを理解できる」と考えています。

 趙州は、院主に「茶を飲みに行け」と言いました。

 言葉では理解できないことを知る機会を、院主に与えるということを、趙洲は「やっている」のです。


 言葉を使うことが悪いとか、知ることが悪いというのではありません。

 大切なことは、言葉や知識は上手に使うことができるし、下手に使うと迷うということです。

 言葉は現地ではありません。

 言葉は地図です。

 言葉は現実ではありません。

 言葉は現実を抽象化する記号です。

 言葉を上手に使うには、現実を感じていることが大切です。

 私たちは「感じる」ことでしか、現実とタッチすることができません。


 ハイデッカーやサルトルが説き、ロジャース、パールズ、エリスたちが心理学に取り入れた「今、ここ」。

 フッサールが「自分の周りで起こっている現象を基準にして行動する」として、唱えた判断停止(エポケー)。

 言葉は現地でないと教えるコージブスキーの一般意味論。

 言葉が示すもの(シニフィエ)と表記としての言葉(シニフィアン)を区別したソシュール。

 多くの人が、同じことをいろいろな言葉で語っています。

 そして、その根底には、「わたしたちは感じることで現在とタッチできる」という事実があります。 


 センサリー・アウェアネスは、そのような基盤に気づくチャンスを提供します。

 しかし、それに気づくかどうかは、あなた自身が自分が気づくことを許すかどうかにかかっています。

 もし、気づくことを許せば、セミナーが終わって俗世間に戻っても続けて気づくことができます。

 もし、俗世間に戻って苦しくなったら、セミナーの体験で気づいたことを思い出すこともできます。

 まだ、そこまで理解できなければ、茶を飲みにセンサリー・アウェアネスのセミナーに行くこともできます。


 うーん、なかなかよく書けたと思います。

 わたしは言葉の使い方が上手になりました。

 言葉の使い方が上手になりましたから、このサイトを読んで、「なるほど」と思う人がいます。

 でも、それは未熟です。

 わたしはこのサイト全体を通して、言葉の限界を示しています。

 ですから、このページを読んで、納得して終えてはなりません。

 ここに書かれたものは、わたしのセンサリー・アウェアネスの体験でしかありません。

 大切なのは、じぶんで試すことです。

 次回のジュディスのセミナーに参加することもできます。

 ただ、「今、ここ」に座って自分が感じているものに気づくことを許すこともできます。

 言葉自体に意味はなく、あなたの「いま、ここ」で感じていることに意味があります。

 感じることと、考えることは違います。