形而上学

 アリストテレスは、多くの書を残しました。天文、気象、動物、植物などの自然を観察して、分類し、考察したものを残しました。

 これらは「自然学」と呼ばれます。

 このような形あるものについての学問をギリシア語でφυσικα(physika)と呼びました。

 英語では"physics"です。

 今では英語のphysicsは物理学のことです。

 しかし、physicと言えば、「薬」になり、形容詞のphysicalには、「物理学の」のほかにも、「体の」という意味があります。

 physicalを名詞として使えば「身体検査」のことです。

 つまり、語源であるギリシア語のphysikaは、物理、体という「自然についての学問」を示していました。

 「ギリシア哲学からデカルトへ」のページで示したように、アリストテレスの著作、講義録はアンドロニコスによって、整理され順番がつけられました。

 このときに、内容に即して分類し、関連のあるものを同じところに集めました。

 アリストテレス的分析・分類をしたのです。

 最初は「カテゴリアイ(範疇論)」 「命題論」「分析論」などの論理学に関するもの、その次に、「自然」についての一連の書、その後に自然的事象のすべてにわたる根本原理や実体についての書と並べられました。

 この順番はアンドロニコスがつけたものです。

 論理学がはじめで、その後が「自然学」、その後に抽象化されたものとなりました。

 つまり、「論理を理解して、具体的なものに論理的な思考をして、抽象化されたものがわかるだろう」とアンドロニコスが考えたということです。

 自然学の後に置かれた一群の書を、ギリシア語で"ta meta ta physica"と呼びました。ta は英語ではtheにあたります。

 metaはベイトソンのところで出てきました。

 「後に、上に」という意味があります。

 つまり、「自然について書かれた書の後の書」という意味です

 "ta meta ta physica"から、metaphysicsという英語ができました。

 つまり、mataphysicsの分野はアリストテレスが初めて書きましたが、アリストテレス自身は、そんな言葉を知りもしなかったのです。

 おもしろい話でしょ。

 実存が先で観念(言葉)が後なのです。

 このmetaphysicsを日本に紹介するときに翻訳者はどんな日本語にしようかと悩みました。

 そこで、易経の繋辞上伝の“形而上者謂之道、形而下者謂之器”(形よりして上なるは、これを道と謂い、形よりして下なるはこれを器と謂う)という言葉から、器という形に見えるものではなく、その上の形に見えないものを扱うという意味で、「形而上学」という日本語を作りました。

 ふう、やっと「形而上学」が指しているものがわかりました。

 ところがです。

 このままでは終わらないのです。

 metaphysicsと言う言葉は作られたときは、「アリストテレスの書いた本の分類」につけられた言葉でした。

 ですから、別のシリーズとして分類された倫理学や、魂などは「形而上学」ではありませんでした。

 実際にアリストテレスが「自然について書かれた書の後の書」に書いたものは、四原因論、エイドス、エネルゲイア、デュミナスなどです。

 現在、「形而上学」といわれるものとは違うように感じます。

 アリストテレスについて書かれて本では、形而上学は「アリストテレスが書いた本の内容」になりました。

 さらに、その本を元に書かれた本では、アリストテレスの本の分類とは関係なく、「ものや体という具体的なものから抽象化された観念」について書かれるようになりました。

 というわけで、倫理学も形而上学に組み込まれましたし、物理学にも形而上学的全体論という表現が見られるようになりました。

 えーと、どこに書いたんだっけなぁ、一般意味論かコミュニケーション理論か、認識論に書いたと思いますが(あちこちにいろんなことを書いたので忘れている)、「言葉に意味はありません。意味はコンテクストの中で作られます」から、時代や著者、そのときの文脈で意味は変わります。

 「形而上学」という言葉を聞いたときには、「あー、具体的なものではなく、抽象化された観念について話しているのだな」と理解してください。


 「形而上学」というと、なにやら難しいことを考えているように聞こえます。

 それは具体的なものを扱わずに、それらを抽象化した観念を扱うからです。

 一般意味論で「地図の地図を作ることができる」といわれます。

 現地のない地図では、危なくて人生を歩けません。

 現代哲学では、「いわゆる形而上学」の存在さえも疑われます。

 なんせ、抽象化されているから、実体をつかめません。

 よくわからないけれど、「形而上学というレッテルが貼られた抽象化された観念の分野。具体的なものは扱わない分野」が形而上学です。

 もし、「形而上学」として語られるものが、現実を元にして分かりやすく抽象化されていなかったら、理解しようとしなくても良いものです。

 今のあなたが読むための書ではありません。

 えっ、「このサイトでも、十分わかりずらい」ですか?

 うーん、「体の感覚」に戻って今一度、試してください。

 フェルデンクライスメソッド、アレクサンダーテクニーク、センサリーアウェアネス、キネステティクスは体から、「楽」という抽象化された観念を感じさせてくれます。

 これが physics という体を metaphysics 形而上学にすることです。

 実は、このページは「全体論」への前書きなのです。