笑いの分析


 では、先ほどの小咄の分析をしてみましょう。

 まず、第1話では、男は視覚情報の取得について忘れています。

 自分が、小学校の時計を見ていないということが、「落ち」の仕掛けです。

 そこに注意を向けないように、いろいろな事象、状況を書いています。

 海、漁師、風、年老いている、息子たちの船、腰に下げたラジオ、古い歌謡曲、これらのことに男の注意が行くと、時計の存在が忘れられます。

 そして、男は、「年老いた漁師は、何か自分にはわからない能力で、時間を知ることができる」と思いこみます。

 老漁師の示した行動の中に、自分で勝手に「意味」を作り出すのです。

 そして、老漁師の価値を自分の中に作り出します。「落ち」ではそれが突然逆転されます。

 書いた人の、この「お誘い」につきあっていた人は、笑います。ストーリーに入り込んでいない人は笑えません。

 価値観が形成されていないからです。

 第2話では、聴覚情報の忘却が、「落ち」になります。

 この「落ち」に向かうために、第1話から、腰に下げたラジオが出されています。

 第1話からでているので、そこに何の「意味」も見いださないからです。

 本当は、ここが「落ち」に持って行くためのネタなのです。

 ラジオに注意を当てず、さっさと天候の予言に向かいます。

 そして、時計の時と、同じような価値観が作られます。

 第1話では視覚に焦点が当たっていますから、ここで天気予報の掲示板で落とそうとしても、落ちません。

 そこで聴覚という別の感覚で「落ち」にします。視覚に期待していた読者は、ここでも価値観の逆転を体験します。