ライヒの性格分析
ライヒへの非難

 性的に悲惨な例の治療を経験するうちに、ライヒは、

 「神経症の問題解決は治療の中にはない。

 解決は予防にある。」



 と考えるようになりました。

 「フロイトは人々に足りないもの、悩んでいるものについて診ているが、人々の文化や状況を見ていない。

 フロイトは個人より文化を重要視していて、『性の衝動』を既存の社会に合わせようとしている」


 とフロイトを非難しました。

 ライヒは、個人の精神の維持に対する社会経済の重要性を感じ、資本主義ではなく、マルクス主義が望ましいと考えました。

 フロイトの精神分析は、ブルジョワの治療だと考えました。

 ライヒは、原始共産制を理想としました。

 1928年、ライヒはオーストリア共産党に入り、若者のための精神衛生とセックスカウンセリングの診療所を作りました。

 1930年、ライヒは、"Sexual Revolution 性の革命" を出版しました。

 その後、ウィーンに家族を残し、ドイツのベルリンに行き、共産党に入党しました。

 妻はドイツ行きには、同意せず、別居となりました。

 ライヒはベルリンでも労働者のためのクリニック、「セックスカウンセリングと研究のための社会主義者協会」を開きました。

 ライヒはクリニックで、性について、離婚の権利について、住環境の整備について教育しました。

 また、避妊薬を無料で配布し、必要なら中絶をしました。

 クリニックの収益を、性についての知識と、社会改革の自分の考え方の普及につぎ込みました。

 しかし、共産党内部では、性を中心とするライヒの治療は、マルクス主義の邪道だと非難され1933年に共産党から追放されました。

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