転移と抵抗

 フロイトは精神分析が始まると、クライエントは分析医に好意を感じ始めると言います。

 自分の自由な連想を受け入れてくれることから、良い感情を抱くのです。

 これを「陽性感情転移」と呼びました。

 この陽性感情転移が生じることで、精神分析が進みます。

 そうして、クライエントのこどもの時の出来事により生じたリビドーの固着に、分析医は気づけるようになります。

 ですから、まず「陽性感情転移」が生じることが、分析の第一歩です。

 こうして、分析医はクライエントのこども時代にリビドーの対象となった人物と同一視されるようになります。

 自己愛の強いクライエントは、「自分に注目してほしい」と思います。

 しかし、分析医は当事者にはなりません。

 問題解決は本人が問題に気づくことだからです。

 解決は問題の中にあります。

 分析医の中には問題はありません。

 すると、クライエントがはじめに抱いていた陽性感情が消えていきます。

 分析医は役に立たない存在になり、自分のことをじっと見ているだけのいやなやつになります。

 このようにして、陽性感情が消え、陰性の感情が生じてきます


 これが陰性感情転移です。

 このようにして、クライエントは自立して分析医から卒業できます。


 ところが、クライエントのナルシズム=自己愛が強い場合はちょっと変わってきます。

 少なくとも二つの可能性があります。

 一つは自己愛が強いために、分析医を心からは受け入れません。

 しかし、分析医を受け入れないと、自分の抱えている問題は解決しませんから、表面的には受け入れた振りをします。

 言葉では、「あなた(分析医)の言うとうりです」と言いながら、ニヤッと笑ったり、目をそらしたりします。

 分析医を見下しながらも、尊敬して信頼しているように言います。

 陰性感情転移が潜在しているのです。

 もうひとつは、何でも言うがままにするクライエントです。

 このクライエントは真の陽性感情転移を起こす前に、「自分を見ていてほしい」という自己愛が活動します。

 分析医の言うことに反発せず、「聞き分けのよい子」を装います。

 分析医の言うことには従いますが、自らは何も変化しない。

 ただひたすらに、受身になっています。

 この受身的な態度も潜在的な抵抗なのです


 このような潜在抵抗は言葉には表出されません。

 ですから、分析医はまず現在の分析状況、分析医とクライエントの関係を認識する必要があります。

 この「状況を分析する」ためには、言葉は有効ではありません。

 クライエントは簡単に嘘をつくのです。

 有効なのは、分析医に対する態度、ふるまい、連想態度・形式です。

 態度、ふるまいというものは、その人の個人的な体験の中で培われた自我による防衛のパターンです。

 この自我による防衛パターンが「性格」です


 「潜在抵抗」の発見と解消と、自我による防衛としての「性格」の分析が、ライヒの「性格分析」です。

 フロイトの精神分析は「エスが主体をなす無意識」の内容を解釈しようとしました。

 ライヒの性格分析は、エスに迫る前に、「自我が主体をなす防衛パターン=性格」を理解しようというのです。

 フロイトは「エス」に迫ろうとしますから、分析医個人の解釈の能力の高さが求められます。

 性格分析は個人の行動を観察してパターンに分類します。

 分析医の解釈の能力よりも、パターンや技法に習熟することのほうが重要になります。

 分析を学習しようとする学生には、格好の教科書となりました。


 では、ライヒの「性格分析」の方が、簡単なのかというと、そんなことはありません。

 ライヒは、自分以外の人にも自分と同じ能力があると思っていたようです。

 ライヒは native charmer でした。

 Native chramer とは、「生まれながらにして魅力的な人」です。

 あなたの近くにいないでしょうか?

 格別な努力をしなくても、なんとなく周りに人が集まって、輝いて見える人。

 特に格好をつけているのではないが、自然に「さまになっている」人。

 自然に魅力を振りまいている人が、 native charmer です。

 ライヒを知っている人が、「ライヒは brilliant (輝いている)だ」と表現しているのも、その現れでしょう。

 たぶん、キリストもロジャースも、 native charmer だったのです。

 ライヒは自らの native charmer としての性質がクライエントに与える影響に気づいていなかったかもしれません。

 そして、他の分析医もライヒと同じように、陰性感情転移を乗り越えられると信じていました。

 でも、実際には潜在性陰性感情転移を体験するのは、医者にだって「いやなこと」なのです。



 ライヒは分析医のとるべき態度として、2つの態度が必要であるといいます(実際はフロイトがそう言っているとライヒが書いている)。

 「受動的で受容的な偏見無き態度」と「論理的で体系的な態度」です。

 一見矛盾するであろうが、両立するといいます。

 適切に対処していけば、「患者の内部から自然に展開されていく過程に対する反応として自動的に実視されて行く」と言います。

 これはライヒが native chamer であったから、容易にできたことです。

 多くのクライエントが、ライヒに協力的だったのです。

 そして、この「受動的で受容的な偏見無き態度」と「論理的で体系的な態度」は、ロジャースのクライエント中心療法と同じ態度です。

 皮肉なことに、フロイトのリビドーの精神分析を引き継ぎ、自我心理学を糾弾したライヒのクライエントに対する態度は、自我心理学の中心の一つとなったロジャースに引き継がれています。

 また、ライヒの強調した状況分析、ふるまい分析は、その後の精神分析の後継者に引き継がれています。

 エスに対する早すぎて深すぎる分析を避けることも受け継がれています。

おまけ

 2006年現在では、多くの医師が癌という病名を話すことに開放的になりました。

 しかし、患者さんに「あなたの病気は○○癌です」と話すのは、喜んでする仕事ではありません。

 陰性感情転移が来るからです。

 多くの患者さんは病気になると、医者に期待します。

 「なおしてもらおう」と期待して、病院に来ます。

 初めてあった医者でも、「この医者がなおしてくれる」と思いこんでいます。

 ですから、はじめからとても強い陽性感情転移が来ます。

 それから、治療が始まり、いろいろな体験をするうちに、医者のできる範囲に気づき始めます。

 「ちょっと我慢してくださいね」の「ちょっと」が一時間だったり、「ちくっとしますよ」の「ちくっ」が「火箸のよう」だったりするのです。

 このような状況やふるまいが両者の関係を作り上げていきます。

 患者は意識では「任せておこう」と思っていますが、無意識では「この医者は言葉と違う」と感じています。

 しかし、この感じは無意識の領域に抑圧されています。

 そこに「○○癌」という病名を出すと、それまでの無意識が前意識から意識まで駆け上がってきます。

 泣いたり、押し黙ったり、時には「なおしてくれると、信じていたのに」となじります。

 突然の陰性感情転移に医者もとまどいます。

 何が起こっているかを感じない医者は、「二度と告知はしない」と誓います。


 もし、ライヒがこのときの医者なら、どうするのでしょう?

 これは私の想像です。

 ライヒは native charmer ですから、初対面の患者さんからとても強い陽性感情転移をうけます。

 たいていのことは、患者さんが受け入れてくれるでしょう。

 ここで、ライヒは「受動的で受容的な偏見無き態度」と「論理的で体系的な態度」をとります。

 患者さんが何を考えようと、何を希望しようとかまわない(受動的で受容的な偏見無き態度)。

 しかし、すべての行動の責任は患者さん本人にあること、したがって、自分の行動の結果を甘受することを認めたときに自立的な行動ができることを話すでしょう(論理的で体系的な態度)。

 このような態度で、ライヒが患者さんに接していれば、陽性感情転移が過度になることも避けられるでしょう。

 上に述べた二つの態度で診療をしていれば、患者さんも同じ態度を持つかもしれません。

 このような状況とふるまいの中で、「検査の結果、○○癌であった」と話すことになれば、患者さんの陰性感情転移は必要最小限にすむでしょう。

 どのような「防衛規制」をとるかは、患者さんがどんな「性格の鎧」を身にまとっているかによります。

 たとえ、患者さんが悲嘆したとしても、ライヒはそれを受容できます。

 その悲嘆は、「楽になりたい」というエスの表出であり、「私が死んでは家族か゛置き去りになる」という超自我の無理な欲求であり、エスと超自我の葛藤であることがわかっているからです。

 そして、泣き叫びの時には吹っ飛んでいた「自我」が、だんだんと回復してきて、患者さんのエスと超自我の葛藤を調整するようになることを知っているからです。

 ライヒは、取り乱した患者さんを診て、「ヒステリー性の神経症」であると見るかもしれません。

 「受動的で受容的な偏見無き態度」と「論理的で体系的な態度」をとり続ける限り、すべての問題はだんだんと解決に向かうでしょう。

 なぜなら、  適切に対処していけば、患者の内部から自然に展開されていく過程に対する反応として自動的に実視されて行く」からです。


 いわゆる「癌の告知」で騒ぐ人がいます。

 でも、心の中を知れば、いわゆる「癌の告知」の是否を問うことに意味がないと気づくかもしれません。

 人間の心の中には、少なくとも3つの心があります。

 自我がそれらの仲介をして調整しています。

 その調整のプロセスには本人の「性格」が大きく影響しています。

 問題解決は、本人の理性的な「自我」が、わがままを言うエス、かくあるべきと主張する超自我の調整することでできます。

 
 問題は、「人間の欲求はどのように解決されるのか」を、医者でさえ理解していないことにあるのかもしれません。

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