このときから、プロイセンは鉄血政策と呼ばれる富国強兵・対外強攻策を推し進めました。
1866年、プロイセンはオーストリアと戦争を起こし、オーストリアは負け、ドイツ連邦を追放されます。
プロイセンは小ドイツ主義をとり、オーストリアはのけ者になりました。
当時、オーストリアはドイツ人が支配していました。
支配層のドイツ人の人口比率は24パーセントという少数民族支配でした。
ドイツ人以外は、ハンガリー人20%、チェコ人13%、ポーランド人10%、そのほかウクライナ人、ルーマニア人、クロアチア人、スロバキア人、セルビア人、スロベニア人、イタリア人という多民族国家です。
オーストリアを少数支配するドイツ人は、他の民族の不満を抑えるためにハンガリー人と組んで、オーストリア皇帝兼ハンガリー国王が君主となる国家を作りました。
9言語を話し5つの宗教を持つ16の民族が一つの国家を作りました。
オーストリア・ハンガリー二重帝国と呼ばれます。
|