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シャンソン


 1 小節は「僕」や「立つ」というような1つの単語です。

 4小節になると、単語が集まって「僕は窓際に立った」というような文になります。

 これが8つ集まっ て、「僕は窓際に立った。窓からは海が見えた。 黒雲に覆われた空も見えた。突然、稲妻が光った」というような文章になります。

musicians かっこいいでしょ。

 これがジャズなのです。

 つまり、プレイヤーの「内側にあるもの」を、音を使って外側に出すこと、表出させることなのです。

 これが表現になります。


 これをトランペットやサックスやドラム、ピアノのプレーヤーが順番にやっていくのがセッションです。

 アドリブは考えるとうまくできません。

 考えることは音楽の表現手段ではないのです。

 考えて作った音楽は技巧的ではありますが「面白くない」。

 アドリブをあらかじめ作って書いておく「書きリブ」というのがあります。

 しかし、書きリブよりも下手でも、そのときの感じで演奏したアドリブのほうが面白いのです。


 「ジャズはソウルだ」と言われるのは、このためです。

 プレイヤーの内側に表出させたいものがあるから、アドリブになります。

 何も表出するものがなければ、アドリブはできません。

 
わたしは難しいテクニックはできませんから、ただ、「演奏すると、自分のやりたいことができるのが楽しい」ということしか出せません。


 小学生時代に、「上手でなければ恥ずかしい」と思っていたのは誤解でした。

 音楽は楽しむものです。

 木をくりぬいて叩いて楽しんでいた時代から、楽器は進 歩してきました。

 しかし、音楽というものと人間の関係は変わらないでしょう。

 木を叩くのも、真鍮の塊を吹いて音を出すのも同じです。


 わたしはアドリブをできるようになって、一般意味論が示す「意味」という言葉の「意味」を体験しました。

 アドリブはコードという記号を用いた記号言語であると同時に、アドリブしている演奏自体は、意味を伝えようとしない非言語的コミュニケーションです。

 そして、「演奏する」という行動は、自分の「内側の世界」を「外側の世界」に表出するコミュニケーション手段です。

 たぶん、芸術と呼ばれるものはみなそ うなのです。

 マズローはこのような芸術活動を自己実現の欲求による無目的な行動と書いています。

 わたしの意見は反対です。

 これらの行動は目的はあるのですが、「目的が言語化されずに、意識されることもないことが多い」のです。

 演奏している私がそう感じるからです。


 「人間は経験から学習する」ということも自分で演奏してみると良く分かります。

 また、「失敗から学習する」というのも、そのとおりです。

 もちろん、「失 敗に気づくことが学習」です。

 自分のリズムが狂っていることに気づかないうちは絶対に直りません。

 「学習は自分の体験に名前を付けること」というのも本当 です。

 「のどを開く」という表現は、自分が「のどを開いて」演奏していることに気づいたときに、その言葉の意味を理解します。

 言葉で理解したと思っている ときは、のどを開かずに、力を入れているだけだったりします。


 自分の「内側の世界」をそのまま、「外側の世界」に出したいと思って演奏していると、「考えること」をやめて、「感じる」ようになります。

 考えた途端にやりたいことができなくなります。

 
自分の能力を感じて、それでできる演奏をするしかないのです。

 「今、ここで」ということが理解できます。

 1小節先のことを考えたとたんに、今出している音をはずします。


 へへへ、実はわたしは一般意味論や、コミュニケーション理論、システム理論、サイバネティクス、人間性心理学を本を読んで言葉だけで理解できたのではあ りません。

 自分がトランペットの演奏を習い、アドリブをできるようになることで理解したものが大変多いのです。

 だから、生演奏を聞くときには技術ではなく、プレイヤーの「存在」を感じるようにすると人生が楽しくなります。

 と言うようなわけで、トランペットを衝動買いして練習すること6年後の結果はここに。

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