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 子どもの頃から友人は多くありません。

 ひとりひとりとまじめに話したり、遊んだりしていると、その関係を維持するのに大変気を遣わなければなりません。

 こまめに電話をかけたり、手紙を書いたりすることは、時間も神経も使い、遊びたいときに遊べなくなります。

 「友達100人できるかな」なんて歌って、友達を増やしてしまうと、メンテナンスが大変。

 というわけで、友人を選ぶようになりました。

 ですから、わたしが友人として遊んでいる人々は、気楽に話せるし、こまめに連絡しなくても遊べるときに遊んでくれます。

 そのなかに、Tさんというナースがいます。かつていっしょに仕事していました。

 病院では自分の望む看護ができないし、学生のうちの教育が大事と感じたらしく、看護学校の教官になりました。

 Tさんはとてもおもしろい人です。理解は早く、仕事も速い。

 仕事を残しているのがいやなのですぐかたづけます。

 だから、周りの人はどんどん仕事をよこします。また、かたづける。

 締め切りまでは渡さなくてもよいのに、さっさと渡して、さっぱりしようとします。

 でも、その「仕事を締め切り前に終わらせる」ことが、周囲に対して「どんどん仕事をよこしてね」というメッセージになっていることに気づいていません。

 わたしはときどき原稿を依頼されます。

 かつては、1600字くらいなら、朝引き受けて夜にメールで返していました。

 でも、今は違います。

 できあがっても、すぐに渡さない。

 早く渡すと仕事がたかずいたという気にはなりますが、依頼者への教育になりません。

 適度に待たせた方が、わたしという人間の存在を知ってもらえます。

 また、時間的余裕があれば、推敲することもできます。

 書きすぎたときには原稿を送って、字数の超過が許容限度かを確認もできます。

 依頼された仕事が早く終わったときには、余った時間は自分の余裕にしておけばよいのです。

 でも、Tさんはそんなことをできません。

 仕事を残しておくことができません。

 Tさんは仕事を早く仕上げるという能力はあるのですが、早く仕上げないという意志を持てません。

 ベイトソンは「違いを作る違い」が情報だと言いました。

 ウィナーも「0は1と違うから情報になる」と言います。

 「何かをできる(能力)」ということは、「それをやらない(意志)」でもいられることです。

 「やめられない、止まらない、カッパえびせん」では、食べているもののおいしさはわかりません。

 それは「おいしいから食べている」のではなく、「食べ続けている」だけです。

 「やらない」という意志を持つことができて、はじめて「やる」という能力が意味を持ちます。

 「困っている患者さんを見たら、手助けせずにいられない」と言うナースがいますが、それは能力のない人。

 ちょっと踏みとどまって、「何がその人を困らせているのか」を感じられることが、「能力」です。

 意外と、患者さんが自分で自分を邪魔していることがあります。

 すぐに手を出すとわかりません。


 有能な人は時々仕事の提出を締め切りまで取っておくとおもしろいかもしれません。

 取っておいた間に新しいアイデアがわくかもしれません。

 もし、新しいアイデアが浮かばなくても、締め切りには間に合っているのです。

 時間と追いかけっこして、苦しむ必要はありません。

 「締め切りまで置いておくのがよい」からといって、いつも締め切りまで置いておくのも賢くありません。

 「いつも」にすると、結局「違い」が無くなります。

 「ときどき」にすると良いのです。

 そうすると、相手も「いつ、できるかな」と気をかけてくれるでしょう。

 環境とのインタラクションが増えて、自分の存在を感じやすくなります。「変化」が意識を覚醒させます。

 自らに「気づく」チャンスを増やします。

 能力は意志を反映できてこそ、有効な道具になります。

 時間と能力を自分の意志で使うことができれば、仕事を早く仕上げることも、遅く仕上げることもできることを、周囲に対する自分メッセージにできます。

 「時間を有効に使う能力」は、「早くする」こととは違うかもしれません。

 自分がそのときに何をしているかを気づけるように時間を配分することが楽に生きられる能力かもしれません。

 それでも、「だって、残しておくのが嫌なんです」と言う人もいます。

 時間に対する習慣的行動が能力を狭めているのかもしれません。

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