1.地図は現地ではない

 私の友人に四国の看護学校の教官がいます。ある時、讃岐うどんの話になりました。

 その人は「東京で『讃岐うどん』て書いて看板挙げている店を見ると、むちゃくちゃ腹が立ちます。

 あんなん、『讃岐うどん』じゃありません」と息巻いていました。

 「では、讃岐うどんはどんなものなの?」と問うと、「讃岐うどんとは、・・・」と説明してくれました。

 「でも、それは『四国の讃岐うどん』なのでしょう?

 ○○さんが怒っていたのは、『東京の讃岐うどん』でしょ?

 同じ『讃岐うどん』という言葉はついているけど話している対象は『東京の讃岐うどん』と『四国の讃岐うどん』という2つの別物でしょう。

 それを名前が似ているからと言って、怒ると自分が疲れるだけかもしれないです」と話しました。

 カーシブスキーは、多くの人が「言葉・名前」と「実体」を同じと考えていると指摘します。

 「名前」は「記号」でしかありません。「記号」自体に「意味」はありません。

「記号」は伝達されますが、「意味」はその記号を受けた人の中で作られます。

 「東京の讃岐うどん」と「四国の讃岐うどん」は、別物です。

 「四国の讃岐うどん」の中でも、あっちの店とこっちの店では違うはずです。

 また、その日の天候、うどん職人の体調でも違うでしょう。

 それが「個性」です。そう考えると、「名前」で怒るのは、賢いことではないかもしれません。

 このように、習慣的な言葉の使い方、解釈の仕方から離れて、人や出来事の「個性」を伝えられる表現をトレーニングすることが必要だとカーシブスキーは考え、教育しました。