今、ふたたび
「床ずれは看護怠慢」 これは1985年10月13日付毎日新聞の見出しです。
1974年に名古屋地裁で褥瘡が裁判になりました。
遺族である妻が「亡くなった夫に褥瘡ができたのは、看護師の怠慢が原因である」と訴えたのです。
1975年に地裁で、無罪の判決が出ましたが、原告が上訴し争われました。
結局、1985年に100万円で和解が成立しました。
そのときに、上記の記事が載り、日本の看護界に「褥瘡は看護の恥」という言葉が広まりました。
「褥瘡は看護の恥」という言葉は、上記の褥瘡裁判の証言台に立った、北海道大学医学部付属病院脳外科病棟の副婦長の発言だったといいます。
体位変換を2時間に1回行っていれば、褥瘡はできない、褥瘡は看護の恥ですと証言したとのことです。
当時、北大にいた看護師は、看護の独自性を示すものだとして、教官が誇らしく話していたと言います。
確かに体位変換を2時間に1回行うと、褥瘡の発生は予防できるでしょう。
この証言は脳外科の看護についての発言であるということが大きな意味を持ちます。
脳外科の患者さんは脳や神経に問題があり動けません。
人間として生きていくための「動き」が足りません。
「褥瘡のできる原因」は動きです。
ですから、「動きの支援」が必要です。
「不足しているから助ける」というのは、看護でなくても当然のことでしょう。
脳外科の褥瘡発生を低下させるには、定期的な体位変換が有効です。
ところが、この「褥瘡は看護の恥」という言葉だけが、広まってしまい、困った問題が起きました。
問題の一つは、内科の褥瘡についてです。
内科の患者さんは、脳よりも糖尿病、動脈硬化、老化という代謝に関する問題を持っています。
ですから、褥瘡の治癒について、動きのみではなく、栄養や代謝も問題になります。
内科の場合は、皮膚の清潔を保ったり、食事量を増やす工夫をしたりする必要がありました。
そのことを理解していなかった看護界に、「2時間ごとの体位変換」を金科玉条とする「褥瘡は看護の恥」という言葉が蔓延したのです。
混乱が起こりました。
「褥瘡の治らない原因」が、栄養や、皮膚の清潔が提供されないことにもあるのに、時間ごとの体位変換にしか目が向けられなくなったのです。
この和解が成立したのは、わたしが医者になって5年後くらいでした。
医者は楽になりました。
褥瘡を見たら、「看護の恥」だと言っておけばよいのです。
看護師は、何とか自分たちで治そうとします。
しかし、褥瘡の原因は「動きの不具合」ですが、治らない理由は栄養や皮膚の清潔にもあるのです。
このような褥瘡では、どんなに体位変換をしても治りません。
褥瘡のできる原因と、治らない原因が違う褥瘡があることに気づいていなかったのです。
治りが悪いときには、治らない理由を考えて対処しなければならないのです。
そのうち、治癒に足りないものを考えずに体位変換をすることだけを推奨することに疑問を持つ人々が出てきました。
そのような人々は、「褥瘡の治らない原因は、動かないことばかりではない」と主張しました。
「傷を乾かすから治らない」と言い、湿潤環境を進めました。
おもにストーマケアに従事していたETナースが、そのように教育を広めました。
わたしは、そのような人々から1990年頃に湿潤環境について教わり、治療に実践するようになりました。
ETナースは、栄養管理も大切であることを主張していました。
コラーゲンとなるアミノ酸の供給源としてのタンパク質、コラーゲン合成のエネルギーとなる糖質・脂質、そして、それらの原料やエネルギーの有効な利用に役立つミネラルや微量元素の提供も必要なのです。
これが、後にNSTによる栄養対策として脚光を浴びるようになるまで、10年以上が必要でした。
この変化に看護教育はついて行けませんでした。
ある人々は、20年以上前から湿潤環境や栄養を提供してきたのに、 未だに「新しい褥瘡ケア」として、湿潤環境や栄養対策が出版されます。
話を褥瘡裁判の所に戻します。
問題の一つが「内科の褥瘡」であると書きました。
問題はもう一つあります。
「体位変換の質」です。
褥瘡裁判で、熱心な脳外科の副婦長さんが「2時間ごとの・・・」としたために、体位変換の質が「時間」で決まると思われたのです。
褥瘡裁判の中でも、記録上は3時間ごとであったというようなことが証言されています。
問題は、人間の動きの支援の質を「何時間ごとか」という量ではかろうとしたことにあります。
このため、褥瘡予防の体位変換は物理学の支配するところとなりました。
時間ごとの体位変換と、ボディメカニクスによる手技が広まりました。
このような非人間的な方法では、褥瘡を予防できても、人間としての動きの表出は妨げられます。
結局、動かない人を作り出し、看護業務量が増え、ますます質は低下しました。
これが2007年現在の日本の看護が抱える問題です。
「動きの支援」に対する支援方法や分析方法が物理学しかありません。
学生時代には実習で人と直接接する機会も少なく、新人研修の中でも「動きの支援」なんて言葉も聞かずに、育っています。
心理も生理も解剖も自分で感じることをしません。
教科書やマニュアルに書いてないことは、感じないし考えつきもしません。
口では、「患者さんの安楽を大切にしなさい」と言いながら、肩に力を入れて肩こりを作っている人が教育していたりします。
そして、看護師は休日にはヒーリングスペースに行き、「癒された」と喜んで帰ってきたりします。
そのような人々が褥瘡を持つ人々の看護をしています。
わたしはそのような看護師が「悪い」と責める気はありません。
それが今の社会が求めている看護教育だろうからです。
時間を惜しみ、機械的に速く「治す」ことを求めています。
コストパフォーマンスの良い看護を求めています。
看護管理者は、現場の看護師の効率の良い配置や業務形態を考えています。
一人ひとりに看護師が「自分が感じること」をもとにして、計画を立てられては困ります。
教科書的な誰が見ても納得する表現を求められます。
患者さんの個性は大切にしても、スタッフの個性はかくした方がよいのです。
そんな扱いを受けている人々は「自分を感じる」ことさえないので、他人のことなど感じません。
わたしがこの文章を書く気になったのは、褥瘡回診をしていて、たまらなくなったからです。
当院は地方病院です。
最近の研修医制度のために、若手のドクターは来ません。
大学からの派遣医師も減らされました。
しかし、地方都市特有の老人患者はたくさん来ます。
心臓、腎臓、肺、消化器、いろいろな臓器が同時に機能低下しています。
なかには、性格や根性の悪い人も入ってきます。
このような病院ですから、看護師は「忙しい、時間がない」と言います。
「時間がない」という人々
そのような中で、呼吸の悪い患者さんがいました。
人工呼吸器がつけられています。
大転子の所に褥瘡ができていました。
湿潤環境による局所管理を推奨し、何よりもこまめな体位変換が大切と指導しました。
U度の褥瘡ですから、3週間ほどで完治しました。
そして、半年後、ふたたび褥瘡ができました。
褥瘡を一目見てびっくりです。
下腿外側前面???
普通の体位では、こんな所に褥瘡はできません。
エアマットも使われています。
体位を見ていると、看護師が言いました。
「このまえ、見に来たら、スタッフナースが両下腿の下に大きなクッションを入れていました。
両方の下腿を挙上して、大きなクッションの上にのせていました。」
なるほど。
聞くと、患者さんが側臥位になっているときに、下になった方の下腿の下にも、看護師はクッションを入れたがると言います。
エアマットレスは、エアを自動的に入れ替えることで接触の圧を低下させます。
そのエアマットレスの上に、クッションを乗せるとエアマットレスの意味がありません。
こんなことは、自分でエアマットレスに寝てみたり、クッションの当てる場所をいろいろと変えて、患者さんの体に触れてみればわかることです。
両下腿の前面外側に褥瘡ができたということは、そのようなクッションを入れた看護師は、自分で体験したこともないし、患者さんの体に触れて感じていないことも明らかでしょう。
これが、「2時間ごと・・・」の問題点です。
この言葉の流布とともに体位変換の質を問わず、量だけを問題にするようになりました。
介助者が楽にできるというボディメカニクスが教育されたのは、体位変換の数を増やしやすいからです。
本当は、丁寧に動きを支援して、患者さんが楽に動けるような体位に持って行くことが必要なのです。
それが、質の良い体位変換です。
体位変換されることが苦痛ではなく、楽しみになるような体位変換が本当の支援です。
時間ごとの体位変換は、病院管理者が訴えられないためのいいわけにはよいでしょう。
しかし、それだけを考えていると、患者さんには低レベルの介助しか提供されません。
褥瘡ケアの王道は、動きの支援です。
褥瘡ができる原因は、「不適切な動き」です。
動けない、動かない、固定されているから抵抗してずれる、これが褥瘡のできる原因です。
褥瘡のできた後で、治りが悪いときは栄養が低いかもしれません。
でも、栄養が低いから褥瘡ができることはありません。
藤田保健衛生大学の東口教授は、「栄養を良くすると、皮膚が丈夫になり褥瘡予防になる」と2007年の褥瘡学会北海道地方会で言いました。
わたしは現実的ではないと思います。
頭の中で作られた話です。
パールズなら幻想だと言うでしょう。
栄養が良くても動けなければ、褥瘡になります。
NSTに過大な期待を持ってはいけません。
褥瘡のケアは「動きの支援」が最優先です。
褥瘡裁判のあと、「褥瘡は看護の恥」と言われました。
その反動で、「褥瘡は看護の恥ではない。他の要因もある。避けられない褥瘡もある」と主張されました。
もちろん、避けられない褥瘡もあります。
良いマットレスも、良いクッションもない環境では、避けられない褥瘡があります。
看護師一人で、院内のマットレスの全部を購入しろと迫ることはできません。
しかし、「褥瘡は看護の恥ではない」という言葉に安穏として、感じることもせず、学習もしなくて良いものではありません。
ちょっと手を当てて感じてみれば、ちょっと時間を使って体をゆっくり動かしてくれれば、予防でき治療に向かうことは多いのです。
「褥瘡は看護の恥」というのは、短絡的でしょう。
正確には、「褥瘡についてケアの時間をかけなくて良いと思っているのは、看護の恥」と言うべきです。
みんな限られた時間を使って生きています。
忙しい看護師は、褥瘡ケア以外にやりたいことがいっぱいあるから、褥瘡ケアに時間を回せないのです。
「褥瘡ケアにかける時間がない」という人には、「わたしは褥瘡のケアを優先すべきと思っていない」と言うことをお勧めします。
そのほうが、現実にあった表現です。
そして、褥瘡ができたら、「この患者さんにとって、褥瘡予防よりも、優先的に提供しなければならないサービスがこんなにあったのだ」ときちんと説明することをお勧めします。
そうすれば、現代版の褥瘡裁判が生じても勝てます。
褥瘡回診をしている委員長のぼやきですな。