さらしもの

本州の看護学校の教員から「心配です」とメールが来ました。
「電池がもったいないから心配メールを送るな」と返しました
すると、「無駄かもしれませんが、心配は心を配るものですし、思いが行動をひっぱりますので!今の行動の積み重ねが、未来になるのではないかとか…と、はい。口答えです。」と
来ました。
ばっかもん! 自分の愚かさに気づいていない。
さらし者にしてやる!
私の返事は以下のとおりです。
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そうです、口答えです。
わたしはたまたま名古屋に居て、面白くないロボット学会出席で難を免れました
家族は電気のない生活を強いられています
電話もつながらりません。
携帯のメールで連絡するのみです。
わたしのようにネットのメールを携帯に転送している人も多いと思います。
だから、北海道にいる人に携帯のメールを送るのは、彼らにとって唯一の連絡手段の携帯の電源を失わせることになります。
 
お見舞いメールを出す人は、出して返信をもらうと安心するでしょう。
しかし、今回はもらった方は迷惑します。
心配をメールや電話で解消しようとする人は、相手の連絡手段を消費していることに気づいてほしいと思います。
ナースなら、看護教官ならなおさらです。
自分が安心するために患者さんを利用したら非難されます。
同じことなのです。
 
お見舞いメールは不要どころか、害になりえます。
 
昔の日本ではお見舞いは近くにいる人が訪れることでした。
郵便ができて、手紙になり、電話ができて電話になりました。
ここまでの習慣を、世界中につながるインターネットで送ってはいけません。
 
世界中の人から「お見舞いメール」をもらった人は、電池がなくなるのにもかかわらず返信メールを送らなければなりません。
100人の友だちの心配解消のために、一人で返信するのは大変です。
 
心配なら、じっと耐えてください。何かをすることが良いのではなく、何もできないときは何もしないのが良いのです。
 
ずーっと、心配してください。それはあなたの心配であり、私の心配ではありません。
 
わたしは冷徹なのではありません。
冷静なのです。
 
まともなさあさん
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心配が誰のためなのか、今の時代に適しているのか、今回のような大規模の徹底的な電源喪失に適しているのか?
 
習慣を手放して考えていただきたいですね。