看護学生の環境

先週,名古屋の看護学校でセミナーを3日間行いました.
2日めに学生から「全介助の患者さんを実習で担当しました.ベッドから椅子への全介助はどうすればよいのでしょう?」と質問がありました.
先生が「では,午後から澤口先生に教えてもらいましょう」と言いました.昼休みに先生に「全介助というものはありません.介助とはその人のやることの足りないところを手伝うことです.全介助と呼ばれるものは介助ではなく運搬に過ぎません.学生に担当した患者さんの椅子への移動について細かく聞いてください.そうすれば,どこかに本人の使える能力があり,運搬ではない介助の可能性に気づくかもしれません」と話しました.
そして,午後の講義が始まりました.先生に振りました.先生は丁寧に学生の担当した患者さんの現症を学生に話してもらい板書していきました.学生の表現がだんだんと変わってきました.患者さんが右手でカーテンを握っていたり,立てないけれど座っていたことを思い出しました.そして,先生が聞きました.「どうして全介助だと判断したの?」学生が答えました.「看護師の言葉をそのまま飲み込んだのです.患者さんは全介助の必要な人ではなかったです.」先生が聞きました.「どうして,看護師の言うことを信じ込んだの?」「わたしに勇気がありませんでした.患者さんその人を見なかったのです」
パチパチパチ.わたしは拍手しました.他の生徒は拍手しませんでしたが,私はここにファシリテートを見たのでした.
この先生はなみの先生ではなかった.ちゃんと学生の気づいていなかったことを意識のテープルの上に乗せて見せて,学生にそれらの関連に気づくチャンスを提供しました.学生はそのチャンスを活かし気づきを深め,体験と知識に変えました.学生と先生の協働作業です.まさに「啐啄の機(そったくのき)」です(禅語の「卒啄同時」).ヴィゴツキーの言う「発達の最近接領域」です.ソクラテスの「産婆術」です。素晴らしい.これが教育の行うこと,学習の環境づくりです.
1日目は学生の反応の鈍さに嫌になっていましたが,この学生の変化を見たときに「来てよかったな」と思いました.
ふふふ,ここに隠された「教育」に気づきましたかな.この先生に対するわたしの態度が,じつはこの先生自身の学習の環境になっているのですよ・・・