エリスの論理情動療法

 選択できるというとき、多くの場合、経済的面や責任という面からの選択をできるということを示しているだけです。

 人生とはそういうものです。

 もし、いつでも良い選択だけをしているのなら、何事もそのままで良いことになります。

 そうすれば、何も決める必要はないわけです。しかし、人は悪いことを選択して行うこともできます。

 では、そのように悪いほうを選べば、自由でしょうか?

 選択できるという点で自由です。

 しかし、選択したことをしなければならないという点で自由ではありません。


 ほっといても、何も悪いこと起こらないということでもなければですね。

 まぁ、そんな選択はめったにないことです。

 ですから、あらかじめ決められた選択肢についての情報、賞と罰、その選択の結果を評価して比較して決意することとともに、「自由」があるわけです

 人生は、こんないまいましい決定の連続のようです。

 飽きているひまもないほど、次々と決定を迫られます。

 教訓:「もし、自分が自由に行動していると思っているのなら、選択や決定は簡単にできます。

 しかし、人生が常に何らかの制限を自分に課していることに気がつけば、あらかじめ調べて選択肢、まあこれも制限はあるのですが、を選ぶこともできます。」

 では、自由意志はないのでしょうか?

 そう、完全に自由な意思はありません

 しかし、それでもまだ、役に立つ情報を集め、それぞれの選択の結果を予測して決断し、さらにより細かい選択をするという冒険をすることができます。

 完全な解決策はないのでしょうか?

 そうです。完全な解決策というものはありません

 あるのは、「ひょっとしたら、より良い結果になるかもしれない」というものだけです。

 ですから、安易に衝動的な意思決定をしないように気をつけましょう

 そのように望むことについては、自由です。多少はですがね。