「生への欲求」

 欲求が生じるということは、システムの中に「足りないもの」があるからです。

 足りないと感じるから緊張し、満たそうとします。

 満たすことで緊張緩和と満足が得られます。

 ですから、性的な欲求が相手を求めることであるならば、それは自らの足りないところを、異性を得ることで満たそうとしていることになります。

 「人間は男と女の二人で一つのシステムを形成する」と考えるとわかりやすくなります。

 このような考えは、古くから認められています。


 日本の古事記のはじめには、天の神に命じられて、伊耶那岐命(イザナギノミコト)と伊耶那美命(イザナミノミコト)が天瓊(沼)矛(アメノヌボコ)で混沌をかき回し、引き上げたしずくがオノゴロジマとなりました。

 その島に降り立ち、伊耶那岐命が伊耶那美命に「我がなりなりたるところを、あがなり足らざるところへ・・・」と言います。

 つまり、「わたしの充分以上にできあがったところを、あなたのまだ充分にできあがっていないところにあわせたら良いとが起こるよ・・・」と言うのです。

 このようにして二人が交わり、大八島(おおやしま 日本列島)が生み出されます。

 さらにたくさんの神様が生み出されます。



 さて、ここで突然、話はギリシャに飛びます。

 哲学者プラトンは「饗宴」という本を書いています。

 ソクラテスを中心に酒を飲んだときに、エロスについて語り合うという設定で話が進みます。

 この中でアリストファーネスという人が、「性と愛」について語っています。

 人間はかつて3種類いました。男男、男女、女女です。

 樽状の胴体に4つの足と4本の腕、二つの顔、二つの性器、一つの頭を持っていました。

 この人間は頑丈でしたが、傲慢でした。

 ゼウスは人間の傲慢さに怒って全員を二つに裂きました。

 死んでしまうとゼウスを祭るものがいなくなりますから、神様も困ります。

 ゼウスはアポロンに命じて裂いたところを癒し、死なないようにしました。

 こうして今の人間の姿となりました。

 つまり、人間は男と女の2種類になりました。

 このため、人間は元々一つであった半身を求めて相手を求め合うのだと言います。

 男男や女女だったものは、同姓を好み、男女だったものは異性を好みます。

 どの組み合わせにせよ、2つが一つになったときに満足すると言います。

 異性のカップルは子供を産み、「生」をつなぎます。

 同性のカップルは子供は産まずに、高貴な愛を生み出すといいます(当時のギリシャでは少年愛は崇高な愛でした)。



 このように、男女が一つになってシステムが完成する話は、昔から日本にもギリシャにもあったのです。

 人間が異性を求める欲求を持ち、それを得て満足するということは理屈を付けなくても、そのまま認めるしかない話だと思います。

 このようにして「性」の完成が、「生」の誕生のもとになり、くり返されて生きていきます。

 ですから、「性の欲求」は「生の欲求」なのです。


 「性の欲求」はラテン語で libido リビドーです。

 生きるのに必要な「生への欲求」の原動力そのものが、このリビドーだとフロイトは言います。

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